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佐久間盛政は稀代の軍略家ではなく稀代の猪武者

1名無しさん@おーぷん:2017/09/21(木)21:00:30 ID:g5V()
佐久間盛政の問題点は以下のように多岐に渡る。

1、柴田軍が先に戦場に到着し、有利な地の利を手に入れたのに、率先してそれを崩してしまった

2、奇襲作戦に失敗して撤退する時の準備を何も考えていなかった

3、中川清秀を討ち取っただけで有頂天になってしまい、二匹目の泥鰌を狙おうと欲を出した

4、柴田勝家の再三再四に渡る撤退命令を無視した

5、秀吉軍が賤ヶ岳に舞い戻ってからも撤退の決断が遅く、追撃を受ける事態になっている

6、撤退する可能性をまるで考えていなかったので、泥濘や闇夜、そして主が指摘するような「坂」を移動する準備がまるでなってなかった

7、何とか撤退に成功したと思いきや、弟の柴田勝政が壊滅の危機と聞いて、慌てて救援に駆けつけた
(元々柴田勝政がここまで追いつめられたのは、撤退命令を無視した佐久間盛政のせいなのだが)

8、当然の事ながら、昨夜から一睡もしていないし、補給も受けていない

9、大軍の秀吉軍&丹羽隊に、寡兵で正面決戦を挑んだ
(丹羽隊だけが相手なら、勝政の軍勢を合わせれば互角か、少し優勢とは言えたが、さすがに秀吉本隊相手は無理)


もうこの時点で、「前田利家」が一切関係ない所まで滅茶苦茶な状況にしてしまっている。
こんな状態で、
「前田利家が撤退しなければ勝てた」
など、狂人の寝言であろう。

以上から佐久間盛政は愚将で猪武者である

前スレhttp://ikura.open2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1494130023/l30
2名無しさん@おーぷん :2017/09/22(金)06:23:26 ID:Xyr
今度は佐久間キチガイは「名将」や「軍略家」という表現ではなく、
『迅将』などと言い出すに至った。

まず第一に、非情に馬鹿馬鹿しい指摘をしなければならないのだが、
【迅将】などという日本語は存在しない。

「名将」や「軍略家」「兵法家」「軍神」「猛将」という単語なら存在するし、当然国語辞書にも記載がある。
私の携帯でも、これらの単語は一発で変換可能である。
パソコンの変換はどうなのか知らないが、スマホで一発変換出来ない、
国語辞書に定義どころか記載すら存在しない、「勝手な日本語」をでっち上げるのは勘弁してほしい。

さて、それを踏まえた上で、佐久間キチガイ氏の妄想与太話を解剖する。

>織田信長最大の敵、石山本願寺の牙城加賀国

石山本願寺の「牙城」は、他のどこでもない、「石山本願寺」である。
こいつは真性の大馬鹿なのだろう。
国語辞書の大辞泉にはこう書いてある。

【牙城】…敵の本陣。敵の本拠地。また、ある勢力の中枢。

この者は、石山本願寺の本陣や本拠地、もしくは中枢は「加賀に在った!」などという珍説を垂れ流すつもりなのだろうか?
ならば「石山」本願寺ではなく、「加賀」本願寺と名乗れば良いではないか。
本願寺の指導者であった顕如が立てこもっていたのは石山か?加賀か?
それだけ考えても、加賀が「牙城」である訳もない。

>荒山の急襲(約2日で現地入りする脅威的な速さで上杉軍を急襲、三人の指揮官全員討ち取り大圧勝する。)

この馬鹿は、以前指摘された事もすぐに忘却する。

【上杉軍は交戦する事無く帰った】のだ!

荒山合戦の対戦相手が【誰】なのかすら、この馬鹿は理解していない。
敵は上杉ではなく、【能登の国人】【畠山旧臣】である。
上杉は援軍こそ送ったものの、合戦本番に間に合わず、【前田利家の】焼き討ちによって燃え盛る火の手を見て【戦わずに】去ったのである。
そもそも当時の上杉家は謙信在世の時と異なり、四方八方に敵を抱えて滅亡寸前になっていた状態である。
信濃や上野で北条と戦い、新発田重家の反乱にも対処せねばならず、
その上で能登の国人一揆に是が非でも参戦しなければならなかった強い動機など無かった。
国人が敗退したなら、それ以上長居は無用という事で撤退するのは当然である。

>賤ヶ岳の奇襲(約10kmの山岳地帯を行軍して約四時間で砦を陥落させ摂津の大名中川清秀を討ち取る。)

撤退する際には、【19時】に秀吉本隊が帰還したのを知っても延々【23時まで】グズグズし続け、
佐久間の撤退開始から【三時間後=翌深夜2時】に追撃をかけた秀吉本隊にすら追いつかれ、
【朝6時】に撤退完了というろくでもない始末…
佐久間キチガイ氏が言いたいのだろう「迅速」とは程遠い人間ですね…
3名無しさん@おーぷん :2017/09/22(金)06:33:00 ID:Xyr
そもそも、総大将の柴田勝家は、佐久間盛政に対して、
「奇襲に成功したら速やかに元の位置に戻れ」
という条件付きで送り出したのであり、
その後も佐久間に何度も何度も使いを送って、
「元の位置に帰れ」と怒っています。
それでも言う事を聞こうとしないで居座ったので、
【これ以上自分の命令を無視するならば軍権を剥奪する!】
と脅した上で、勝家の実子である、勝敏を送りつけてきたので、
これでやっと勝家の命令に従おうという気になったのです。

【中川清秀の砦を四時間で落とした】事を自慢するなら、
さっさと四時間かけて、元居た陣地に戻るべきじゃないんですか?
それこそが「迅速な将軍」(迅将?)のやる事でしょ?
夜7時には、秀吉本隊の帰還を知っていながら、撤退完了が翌朝6時という、
4時間の道のりを11時間かけた佐久間のどこが「迅速」なんですか?

まあ、国語辞書にすら記載されていない「迅将」などという意味不明な言葉に酔っぱらってるあなたの定義が如何なる物かは解りませんが。
もしかしたら「迅速な将軍なんて意味は籠めていない!」と喚き出すかも知れませんね…
4名無しさん@おーぷん :2017/09/22(金)13:17:55 ID:Q7D()
>>2
>>3
そもそも「迅将」(定義が言葉から想像しかできんが)という言葉を戦国時代として語られるなら、絶対に外せないのは秀吉でしょ
・3日の夜~13日の夜の十日で備中高松城から山崎まで行き光秀を撃破、光秀は後に死亡(中国大返し)
・大垣~木之本の約53kmを5時間で走破し柴田軍を撃破、勝家はその4日後の北之庄落城時に自害(美濃大返し)
・墨俣一夜城や石垣山一夜城の設営の速さ
この点から少なからず戦国一の「迅将」候補には上がってくるはず(というより他に「迅将」と言えそうな武将なんてほぼ知らんが)

佐久間キチガイが佐久間盛政に「迅将」の異名つけた点についての問題は、「迅将とは」を考える際に秀吉を語る時に賤ヶ岳の戦いでの佐久間盛政の「撤退の遅さ」がどうしても語られるんだよね

まあ佐久間キチガイはが佐久間盛政を「迅将」で救おうとして、なおかつ「速さこそ最強を地でいく(←速さで佐久間盛政を破った秀吉への賛辞と佐久間盛政への皮肉にしかならない)」とか言っちゃうからお察しやね

迅将とか言い出したのは佐久間ガイジの皮を被ったアンチ佐久間ガイジ説すら浮上してくるレベル
5名無しさん@おーぷん :2017/09/22(金)23:45:19 ID:Xyr
>>4
仰る通り。
他人に対して「勉強し直せ」などとほざくくせに、彼のレベルはあまりにも低すぎる。
「軍略家とは言えない」と論破されると、「迅将」などいう定義不明の勝手な日本語をでっち上げる始末。

そもそも「石山本願寺の牙城は加賀」とか言い出す時点で、歴史以前にまともな日本語が使えていない。
6名無しさん@おーぷん :2017/09/23(土)02:18:57 ID:apz()
>>5
しかしなぜ佐久間キチガイは佐久間盛政を「猛将」と褒めるのをやたらと嫌がるのだろうか?「猛将」は褒め言葉ではないとでも言うのだろうか?
軍略家すら否定されたら武力を誇る「猛将」はかなりの褒め言葉になるはずだが

おそらくは佐久間キチガイも所詮佐久間盛政は稀代の猪武者とでも気づいてしまったんやろなあ
7名無しさん@おーぷん :2017/09/23(土)05:15:57 ID:311
【猛将】…強くて勇気のある武将。

【猪武者】…
1、向こうみずに敵中に突進する武士。
2、状況を考えないで、がむしゃらに事を行う人。

佐久間盛政は、1の意味でも2の意味でも「猪武者」と呼ぶに相応しい。
http://ikura.open2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1494130023/999
彼が並べ立てた「功績」とやらを振り返ってみても、
「猪武者」以上の評価など出来るはずもなかろう。

「4時間で中川清秀を倒した!」と自慢するが、
【敵の8倍の戦力】で、
【砦の防備も固まっていない状態の敵】を攻撃すれば、勝てるのは当たり前ではないか。

彼は絶対この指摘を無視するのだが、
佐久間盛政は「1vs8」を覆したのではない。
「8vs1」で、守りの整っていない敵を攻めて勝ったに過ぎない。

確かに、これはこれで孫子の兵法も推奨している敵の弱い所を攻めよという教訓に即している立派な作戦ではあるが、
別に佐久間以外の誰もがやれなかった事でも無い。
戦国時代を見渡してみても、いくらでも敵の弱点を攻撃して局地的勝利を挙げた例などある。
信長だって、毛利だって、信玄だって謙信だって島津だって長宗我部だって、秀吉だって家康だって、
全員、敵の弱点を狙ったのだ。

そもそも、往路は4時間で済んだのに、
「撤退するのに11時間もかかった」
時点で無能。

『今のような煌びやかな明かりも無しに真夜中に撤退したのだから、昼間の倍かかってもおかしくない!』
などと言い出すのかも知れんが、柴田勝家の命令有る無し関係無く、奇襲攻撃に失敗した時の事も考えて、
また、たとえ中川に勝ったとしても、怒った秀長が佐久間隊に全力で襲いかかってきて敗北した時の事を考えて、
常に【撤退ルート】は確認、確保しておくのが「名将」であろう。
「最悪の事態」を考えられない指揮官は、指揮官失格である。

秀吉本隊が帰ってきてからも、19時から翌2時までの間秀吉は動けなかったのだから、
手持ちの兵の中で百名程度動員して、夜間の撤退路を確保する時間はいくらでも有った。
まあ、問題は奇襲攻撃に特化していた佐久間隊に、無駄に使える夜間撤退用の炭薪は有ったか否かであるが。
そもそもそんなのさえ無いのであるなら、そんな部隊で前線に居座り続けた佐久間は無能であろう。
8名無しさん@おーぷん :2017/09/23(土)18:32:01 ID:apz()
>>7
たしか砦に居座れるように準備してたとか
今で言うテント張って秀吉来たから片付けてみたいなことしてたんじゃない?(残念ながら比較的軍事的知識に乏しいので発想が…)
この時点で柴田勝家の「撤退せよ」の指示はもう無視が確定してるけど

前スレでいう佐久間擁護側になぜ猛将のワードを嫌うのか聞けてなかったのよな…
9名無しさん@おーぷん :2017/09/23(土)18:56:53 ID:311
そもそも猛将というのも過大評価だからねぇ…
賤ヶ岳の戦いで、佐久間は「八千」の兵を率いていたそうだが、
果たして敵である秀吉軍に、せめてその二倍の一万六千の出血を強いる事が出来たのか?

たとえ命令無視しても、撤退の時期を見誤っても、行軍が遅くても、撤退の成功後に休み無く前線に戻ってしまっても、
【敵に大損害を与えた】という実績さえあるなら、まだ佐久間盛政は擁護出来る。

元々の兵力が倍近く違うのだから、普通に戦っていれば柴田の敗北であったろう。
(だから地の利と人の和を有効に活かして戦わねばならなかった)

元より秀吉の側に圧倒的に有利な兵力でありながら、
佐久間が倍の一万六千の損害を与えて玉砕したとかなれば、
楠木正成か高橋紹運並みに人々の涙を誘い、評価を爆上げする事は出来たであろう。

しかし、Wikipediaを見ても損害の項目は「不明」と書いてあるだけ。
Googleで色々調べてみても、賤ヶ岳の戦いの損害、特に秀吉側の損害については記載が無い。
特筆する事も無いくらい「軽微」であったのだろう。

これでは、佐久間は「ただ突出しただけ」で、
「敵のど真ん中に馬鹿みたいに居座り」、
「勝家の命令を無視してふんぞり返り」、
「秀吉本隊が帰ってきてからも撤退開始まで4時間もモタモタし」、
「さらにそれから3時間後に追撃をかけた秀吉本隊に補足されて攻撃され」、
「やっと撤退出来たかと思えば、柴田勝政救援に休み無く前線に舞い戻ってしまう」…

とんだ「大馬鹿」「無能」指揮官という事にしかならない。
これでは「軍略家」や「知将」はおろか、「猛将」すら名乗る資格は無いであろう。
10名無しさん@おーぷん :2017/09/23(土)19:09:25 ID:311
>>8
>今で言うテント張って秀吉来たから片付けてみたいなことしてたんじゃない?

それが本当なら、佐久間は根本的に優先順位が違うんだよな。
大事なのは「兵士」であり「テント」ではない。
テントなんか全て捨て去ってでも、さっさと撤退を始めなければならなかった。
戦国無双か戦国BASARAのゲームのように、一人で敵兵千人をバッタバッタと切り倒せるのならともかく、
現実の戦争であんな事は有り得ない訳で。
佐久間がどんなに「一騎当千」の強者であろうとも、戦争に勝つ為には兵隊は必要。

追撃されて無駄に兵を失ったり、
ようやく撤退成功したと思いきや柴田勝政の救援に向かってしまったり、
佐久間には「兵を思いやる」気持ちが皆無なんだよな。

中国の兵法書では、兵士が膿で苦しんでる時、
指揮官がわざわざ自分の口で膿を吸い出して治療してあげて兵の心服を得る話が出てくるが、
「名将」と呼ばれる者は、多かれ少なかれ兵隊に対しては慈愛を根本としていた。

まあ、「下克上」の時代、多少の権利くらい兵士に認めてやらねば、
兵士が逃げ去ったり、寝首をかかれたりする恐れがあったという事情もあるだろうが。

一見厳格そうに思える上杉謙信でさえ、決戦前、冬空の元に寒風に震える兵士たちに酒や粥を振る舞って大勝利した逸話がある。
敵が寒さに震えている中、十分に暖を取り、また酒の力で気持ちが強くなっている謙信軍は、一方的で無敵の強さを誇ったと言う…

佐久間は、織田家が勢力拡大してから成長した世間知らずのボンボンであり、

『兵隊なんて命令すればいくらでも動くし、いくらでも無茶が通る。壊れれば部品のように入れ替えれば良いだけ』

と考えている節があったのではないか?
11名無しさん@おーぷん :2017/09/23(土)20:52:14 ID:apz()
>>10
戦国時代の設営はよく知らんのよ
テントはものの例えだからそこはなんとも言えん
12名無しさん@おーぷん :2017/09/25(月)04:55:11 ID:0fk
>>11
いや、テントでもバラックでも掘っ建て小屋でも同じことよ。
作り直せば良いだけの建物と、死んだらそこまでの人の命とどっちが大事かって話やね。

どんな精強な軍隊であっても、泥濘の夜間を半日駆けて敵に追われながら撤退したような状態なら疲労だって溜まる。
こんな軍隊を率いて余所の援軍に向かうだなんて狂気の沙汰。

それこそ、【諸悪の根源】みたいに言われている前田利家にでも頼んで、柴田勝政の撤退援護に向かわせるくらいしかやってはいけなかったろう。
本来ならそれすら必要なく、佐久間が自分のせいで乱してしまった陣形を立て直す為に全力を注ぐべきであった。
当然弟の勝政は死ぬであろうが、全ては佐久間盛政が招いた自業自得である。

弟一人助ける為に、疲労困憊の兵隊を再び敵のど真ん中に投入するのは「愚将」のやる事だ。
もしくは「婦人の仁」とでも言うべきか。

柴田勝政がどんなに有能であっても、ゲームのように一人で千人殺せるような豪傑ではなかろう。
一方、佐久間盛政の兵数は、中川清秀奇襲の前には【八千】有ったのであり、
一人で敵二人を倒せば【一万六千】討ち取れる計算となる。
「柴田軍は織田軍の中でも最強」と謳われていた誉れ高き精鋭部隊であるなら、
秀吉軍に二倍か三倍くらいの出血を強いる事とて不可能ではあるまい。

佐久間は、兵を温存して秀吉軍に二倍や三倍の出血を強いる道よりも、
【弟一人】の命を取った愚将としか思えない。
13名無しさん@おーぷん :2017/09/25(月)11:19:58 ID:8Sz()
>>12
うーん…盛政と勝政の救援に関しては柴田勝家が使える軍を全部(山路・拝郷隊)を投入してるように見えるし、佐久間盛政隊は疲弊してるとかいう問題ではないかと

いくら戦の勝敗が重要と言われても養子への情を切ることがそう簡単に出来るか疑問、柴田勝政を失うのは養父の勝家も看過できないはず(もちろん婦人の仁でありそれを察した前田らは撤退したわけだが)
負け戦だからせめて養子だけでも救おうとするのは親としては仕方のない判断で、勝政の行方不明が北之庄の早い落城にも繋がってる

さすがに家族、それも親子や兄弟レベルの繋がりを「婦人の仁」と切り捨てて揶揄するほどの非情さは僕は持ち合わせてないかな…(少なからずそんな当主に僕はついていきたくない)

そもそも賤ヶ岳の戦いは佐久間盛政が大岩山に留まる判断をしたところでもう勝敗が決まっていたかと(あとはどのくらい武将が生き残るかだけ)
14名無しさん@おーぷん :2017/09/25(月)12:00:19 ID:0fk
>>13
まあその通りなんだが、戦争と言うのは、
特に戦時国際法も存在しない、江戸時代の儒教的武士道も存在しない戦国時代の合戦と言うのは、
「如何なる卑怯な手を使ってでも勝てば良かろうなのだ」(byカーズ)
と言う物。
佐久間盛政の行動は、「勝てば良かろう」の戦国時代の原則に反している。

柴田勝政が佐久間盛政の「実の弟」であるなら、
【だからこそ】、涙を飲んで合戦勝利の為に見捨てなければならなかった。
少なくとも手持ちの疲労困憊した兵を全部投入して戦死か逃亡させる愚かな真似は必要なかった。

仰る通り、中川清秀を討ち取った後居座りを決め込んだ時点で勝機は失せていただろう。
(それでも撤退準備を整えておき、19時に秀吉本隊が帰ってきた時点で即座に撤退を行っておけば、追撃被害を出さずに済んだかも知れないが)

それでも、秀吉軍に大損害を与えて散ったのであれば、楠木正成や高橋紹運、大谷吉継くらいには讃えられたと思われる。

湊川で50万とも呼ばれる足利軍に、千人にも満たない軍で特攻した楠木正成は、
単なる「愚か者」ではなく、「花も実もある武士」と讃えられたのだ。

鬼島津数万の兵を、岩屋城の750人で受け止めて玉砕した高橋紹運とて、
(名将立花宗茂の実父なのもあるが)
それなりに評価されて後世に名前が伝わっている。

賤ヶ岳の負けを取り戻せないのであれば、敵に大損害を与えて玉砕するしか、
「佐久間盛政は名将」と祭り上げる事は出来ないんじゃないのかな?
15名無しさん@おーぷん :2017/09/25(月)13:43:34 ID:8Sz()
>>14
中途半端に逃げてしまったのもまずかったんやろな
賤ヶ岳で討死してればむしろ…どのルート辿っても単なる猪武者やな…
やっぱり失策が大きすぎる
16名無しさん@おーぷん :2017/09/25(月)22:51:18 ID:0fk
それでも例えば佐久間隊八千が、秀吉軍の兵を一人で二人殺しておけば一万六千の損害を与えられた計算となる訳で…
秀吉軍の総兵力が五万(Wikipedia)らしいから、
そこから一万六千も討ち取って果てたとなればよっぽどじゃない?
もしかしたら「七本槍」の何人かも討ち取られていたかも知れないし…
17名無しさん@おーぷん :2017/09/25(月)22:54:01 ID:0fk
仮に佐久間隊八千が全員二人ずつ秀吉軍を討ち取って玉砕したのなら、秀吉軍の損害は32%になる。
3割の兵士がやられれば全滅判定という格言があるように、
のちの天下人である秀吉に全滅判定レベルの大損害を与えたとなれば、
それはそれで評価に値するんじゃない?
18名無しさん@おーぷん :2017/09/26(火)02:04:44 ID:9Os()
そら二人討ち取れるなら評価できるだろうけどやっぱり現実的ではないかな
砦はひとかどの将である中川がさらっと討死する程度にボロボロの砦だしそれこそ秀吉がそんな損害を許すほどの武将ではないでしょ…
まして佐久間盛政の完全包囲はなってるしわざわざ大岩山砦の佐久間盛政から攻める理由もない
19名無しさん@おーぷん :2017/09/26(火)21:59:19 ID:pPF
https://matome.naver.jp/m/odai/2150598952805026601
20名無しさん@おーぷん :2017/09/26(火)23:04:11 ID:KRX
>>18
一応柴田軍は織田軍の中でも「最強」の誉れ高い軍だったわけで、
上杉謙信相手に長年戦い続けてきた戦慣れしている軍団だったわけでもあって、
おまけに(佐久間キチガイに言わせれば)佐久間盛政は、
そこらのボンクラ武将なんか並び立てない程の「名将」「軍略家」「迅将(?)」なのであって、
そうであるならば、敵に二倍や三倍の損害を与える事だって不可能ではないんじゃないかと。
何もゲームみたいに「一人で千人殺せ」みたいな話じゃないし、二人くらいなら精強な軍であれば不可能じゃないはずでは?
21名無しさん@おーぷん :2017/09/26(火)23:09:25 ID:KRX
>>19
「尾張武人物語」とか、Wikipediaすら記載が無い、
Amazonでも現在出版されていない古書扱いのマイナー書物を持ってきてもねぇ…

出版されたのは戦時中のを除けば1979年とか?
「信長革命児論」が大手を振って道を歩いていた時代ですね。
22名無しさん@おーぷん :2017/09/27(水)00:59:54 ID:PvT()
>>20
そもそも前スレで所詮猪武者の域を出ないと結論づけられてるからさも佐久間盛政が名将であるかのような扱いはやめていただきたい
圧倒的に論破されてたはずだ

それこそ>>10みたいに兵を思いやれないわけで8000もの兵の統率をとるのは無理
秀吉とにらみ合って(兵糧責めかな?)、秀吉の調略にかかって内部崩壊が妥当(府中の農民に寝込みを襲われる程度の人望しかないし)

佐久間盛政ではとても大軍を使いこなせると思えん
23名無しさん@おーぷん :2017/09/27(水)07:41:38 ID:sKk
>>22
一応、佐久間の名誉の為に言っておけば、

撤退戦に関しては見事な指揮を見せたし、
(まあもっとも、秀吉が賤ヶ岳に舞い戻ってきた時点でさっさと撤退しておけば追撃される事は無かったのではあるが)

柴田勝政救援に関しても、
【前田利家と金森長近の撤退までは】
という条件付きで持ちこたえていたんじゃないの?

前日から一睡もしていない、
おまけに追撃まで受けて、夜間の泥濘と坂道を撤退した疲労困憊状態の軍を率いていたにしては驚異的な粘りを見せている。
(これまた、そんな軍隊を率いてよその援軍に向かう事自体が過ちなのであるが)

佐久間がまるっきり無能で八千もの兵を率いる才覚、猪武者的な能力すら無かったのであれば、
最初っから佐久間隊八千を没収して柴田勝家が指揮してれば良かった訳で、
織田家歴戦の武将である柴田勝家が信頼する程度の采配は出来たんじゃないのかな?

無論それは大局を一切見ない【猪武者】的な采配であったにしろ。
24名無しさん@おーぷん :2017/09/27(水)07:53:50 ID:sKk
>>22
一応、佐久間の名誉の為に言っておけば、

撤退戦に関しては見事な指揮を見せたし、
(まあもっとも、秀吉が賤ヶ岳に舞い戻ってきた時点でさっさと撤退しておけば追撃される事は無かったのではあるが)

柴田勝政救援に関しても、
【前田利家と金森長近の撤退までは】
という条件付きで持ちこたえていたんじゃないの?

前日から一睡もしていない、
おまけに追撃まで受けて、夜間の泥濘と坂道を撤退した疲労困憊状態の軍を率いていたにしては驚異的な粘りを見せている。
(これまた、そんな軍隊を率いてよその援軍に向かう事自体が過ちなのであるが)

佐久間がまるっきり無能で八千もの兵を率いる才覚、猪武者的な能力すら無かったのであれば、
最初っから佐久間隊八千を没収して柴田勝家が指揮してれば良かった訳で、
織田家歴戦の武将である柴田勝家が信頼する程度の采配は出来たんじゃないのかな?

無論それは大局を一切見ない【猪武者】的な采配であったにしろ。
25名無しさん@おーぷん :2017/09/27(水)07:55:10 ID:sKk
なんでか同じ文章が送信された
26名無しさん@おーぷん :2017/09/27(水)17:49:57 ID:sJ3
>>24
つまり前田・不破・金森が戦犯ということ?
27名無しさん@おーぷん :2017/09/27(水)18:48:45 ID:sKk
>>26
いいや、それ以前に佐久間が救いようの無いほど【大ポカ】をしでかしているので。

単に「猪武者としては優秀」と言っているに過ぎない。
これが褒め言葉になるかどうか解らないが。

秀吉配下にだって、加藤清正とか福島正則とか、明らかな「猪武者」が居たくらいだし、
佐久間が秀吉配下であれば、勝手に突出する猪武者の尻拭いを誰かが受け持ってくれるし、
石田三成のような優秀な後方支援要員が兵站の確保をしてくれるから安心して猪突猛進出来たんだろうけどね。
28名無しさん@おーぷん :2017/09/27(水)18:53:56 ID:sKk
今の野球の試合のようにトレード制度があれば、
佐久間を秀吉配下に譲って、逆に秀吉配下の堀秀政か中村一氏辺りの守りに長けた武将と交換してしまえば、
もっと良い互角の勝負が拝めたかも知れない。

一か八かの賭けみたいな派手派手しい戦闘が無い代わりに、
佐久間のようなとんでもない大失敗や大ポカも起こらない。
合戦としては至ってつまらないかも知れないが、戦争としては非常に理想的な名高い戦場となったかも知れない。
29名無しさん@おーぷん :2017/09/27(水)18:59:43 ID:sKk
朝鮮出兵で、兵站度外視で満州にまで突進していった猪武者の加藤清正は、
熊本では清正公として神様にもなっている。

加藤清正以上の猪武者とされる福島正則などは、広島50万石の大々名になった。
(まぁのちに左遷されて大幅に石高を失ったが)

一方の佐久間盛政は、どんなに佐久間キチガイ氏が「名将だった」「加賀で善政を敷いた」と力説されようが、
無能な猪武者であり、神として祀られる事も無い全国的に【無名】の人物である。
30名無しさん@おーぷん :2017/09/28(木)20:14:38 ID:du3
>>29
鬼玄蕃伝説
織田信長最大の敵、石山本願寺の牙城加賀国を平定した功績や
荒山の急襲(約2日で現地入りする脅威的な速さで上杉軍を急襲、三人の指揮官全員討ち取り大圧勝する。)・
賤ヶ岳の奇襲(約10kmの山岳地帯を行軍して約四時間で砦を陥落させ摂津の大名中川清秀を討ち取る。)
第二次鳥越城の戦いの折りに、盛政は一揆勢を追い散らしたちまちの内に鳥越城・二曲城の2城を奪還した。
その時の盛政の活躍は、『信長公記』にも記載されており「比類なき功名である」と絶賛されている。そして、盛政の武勇に敵味方とも恐れと畏敬の念を込めて、鬼玄蕃と呼ぶようになった。
31名無しさん@おーぷん :2017/09/28(木)21:32:44 ID:1Ob
>>30
それ【全部デタラメ】って何度否定されれば気が済むんだ?

賤ヶ岳なんて敗戦の総責任者だろうが!
キチガイの詭弁もいい加減にしろ!

「猪武者」として高く評価してやっただけでもありがたく思えよ!
32名無しさん@おーぷん :2017/09/28(木)21:37:07 ID:1Ob
午後7時には秀吉が賤ヶ岳に舞い戻ってきた事を知っていたにも関わらず、実際に撤退開始したのは午後11時という鈍足佐久間!

しかも翌午前2時になっても撤退がスムーズに出来ず、大幅に遅れて追撃した秀吉軍に追いつかれた鈍足佐久間!

ようやく撤退完了したのは、秀吉が戦場に舞い戻ってきた事を知ってから11時間も経った朝6時という鈍足佐久間!

しかもここで兵を休養させて戦場の様子をゆっくり見渡して観察すべきだったのに、弟の勝政の救援に向かってしまった無能佐久間!
33名無しさん@おーぷん :2017/09/28(木)21:40:49 ID:1Ob
それにしても、相変わらず佐久間キチガイは、
【牙城】の言葉の意味すら知らずに妄想ばかりしているんだなw

https://dictionary.goo.ne.jp/jn/40783/meaning/m0u/
《「牙」は「牙旗」の意で大将の旗》
1 城中で主将のいる所。本丸。「敵の牙城に迫る」

2 組織や勢力の中心となる所。本拠。「保守の牙城」


加賀国が「石山本願寺の牙城」な訳がねーだろ!
34名無しさん@おーぷん :2017/09/28(木)21:44:28 ID:1Ob
>>21
「尾張兵は弱い」「尾張は弱兵」として戦国時代当時から有名だったから、
そんな所の『武人』はどの程度の低レベルかは予想つきそうですねwww
甲斐の強兵、もしくは越後の強兵と比べたら、評価しようの無い無能レベルが「名将」扱いされてるのでしょうな
35名無しさん@おーぷん :2017/09/28(木)22:19:23 ID:AA8()
>>31
いや別に敗戦の責に意図的に「触れてない」だけでほぼデタラメではないと思う…(牙城や失敗に触れないという激しすぎる強調はあるが)

佐久間盛政なぞ残念ながら歴史的観点でいけば「秀吉の策に引っ掛かった無能」としか名が残ってないけどね
36名無しさん@おーぷん :2017/09/29(金)00:45:48 ID:QPS
>>35
荒山合戦で佐久間が攻撃したのって「上杉軍」じゃなくて能登の国人だよね?
上杉の援軍は戦わずして撤退したはずなんだけど…
37名無しさん@おーぷん :2017/09/29(金)01:01:07 ID:uJj()
>>36
ああせやな
でたらめやった
38名無しさん@おーぷん :2017/09/29(金)09:23:40 ID:QPS
加賀制圧に関しても、一般的にその主体者、指揮官は【柴田勝家】とされてるよなぁw
佐久間盛政は柴田勝家指揮下の一武将でしかないはずなんだけど、何で手柄を独り占めしてんだ?
39名無しさん@おーぷん :2017/09/29(金)09:30:01 ID:QPS
もう佐久間キチガイにはハッキリ事実を突きつけてやった方が良いのか?

「猪武者としては有能」という唯一の評価も捨てて、
「佐久間盛政は信長の勢力拡大に便乗しただけのまるっきり無能」
としてもらった方が、この馬鹿にも理解出来るか?

ほんの少しでも甘い顔を見せてやればつけあがるキチガイには、これくらいお灸を据えてやらなければ、【一般的な】佐久間盛政の評価が解らんのか?

まあ、誰も言ってない、
『とにかく補給も休養も何もかも無視して高い所に陣取れば良い!それが地の利と言う物だ!』
とか言い出すキチガイである以上、全否定してやった方が解りやすいのかも知れんが。
40名無しさん@おーぷん :2017/09/29(金)09:33:23 ID:QPS
何度も何度も【佐久間は猪武者】と書いているにも関わらず、>>26みたいな我田引水的結論に持ち込む佐久間キチガイとは、まともな日本語の会話が成り立たないと感じる。
どっからどう読んでも「前田や金森の責任」なんて書いてない、「猪武者としては有能」としか書いてない文章を無理矢理ねじ曲げるキチガイなんだから。
41名無しさん@おーぷん :2017/09/29(金)15:14:46 ID:uJj()
そもそも佐久間盛政の功績って本当に「猪武者として有能」って言える内容なのか?
「猪武者」への前フリとしての功績なんだから、むしろこんな功績などなかった方が自身を過信しなくて賤ヶ岳での汚名も無くなって良かったのでは?
このレベルの功績なら代わりは(本来なら)なんとかなるでしょ
42名無しさん@おーぷん :2017/09/29(金)15:38:50 ID:QPS
>>41
秀吉子飼いの福島正則か加藤清正レベルの「猪武者」としても佐久間を評価出来ないとすると、
佐久間の評価ポイントなんて「な~んも無い」事になってしまうので…
まあ、実際「な~んも無い」と言い切って良いのかも知らんが…

佐久間キチガイが唯一自慢出来る荒山合戦とて、
佐久間一人で何とかしてたならともかく、前田が既に戦局を決定づける一打を放っていたのだし、
援軍の上杉軍を追い払ったのも前田による少数の焼き討ち…

「ただの無能」でしかない事になってしまうのであり、
「こんな無能に大軍を任せた柴田勝家の頭はおかしい、耄碌していた」
という話にもなりかねない…

佐久間が馬鹿と言われるのは事実なので一向に構わないのだが、
歴戦の猛者である勝家や利家までもが耄碌か臆病風に吹かれたかのように言われるのだから困る。
43名無しさん@おーぷん :2017/09/29(金)21:32:57 ID:uJj()
>>42
勝家の耄碌は齢60を越えてるし、養子やその兄弟を優遇してしまうのは人の子としてしょうがないかと
というか清洲会議の微妙な動きといい養子の多さといいなんか将来の動きが見えなすぎる
勝豊、勝政、勝敏の誰に継がせるのかとか全く見えない…

利家が臆病風って言われるのはむしろ佐久間盛政が有能ってのが前提では?
賤ヶ岳以外ではあんまり臆病風の評判を聞かないし

臆病風の評判についてありうるのは…江戸時代に前田下げが行われた可能性か
それこそ前田利常が自ら暗君を装うくらいだし

柴田勝家の耄碌か前田利家の臆病風、どっちかは残るのが確実だし、そこで考えられるべきは前田利家の臆病風よりも柴田勝家の耄碌のほうがあり得るかと
44名無しさん@おーぷん :2017/09/29(金)23:08:18 ID:QPS
>>43
賤ヶ岳の陣地構築を見る限りでは、勝家は完璧な布陣を敷いていたのでは?
早々に決戦場である賤ヶ岳に到着したら、北陸街道を封鎖する地の利有利な場所を見極めて布陣し、
あとは一歩も動こうともしなかったというのは、とても「耄碌爺」に出来る芸当ではないと思うのだが…
佐久間盛政が軽挙妄動しなければ、あんなに呆気なく賤ヶ岳の帰趨が決まる事も無く長期戦化したでしょ。
日本の為にそれが良いかどうかはさておき。

佐久間が突出した挙げ句軍を返さなかった事についても、
このせいで柴田軍全軍崩壊の原因になると正しく理解して何度も撤退命令を下しているし、
勝家の判断能力を見る限り、「耄碌してる」とは思えないのだが…

問題なのは、佐久間キチガイが盛政評価を爆上げしようと企む余り、
「勝家や利家、金森長近らは無能だった、耄碌していた、臆病者だった」
みたいに他の武将を罵倒して評価を下げようとしてくる点にある。
45名無しさん@おーぷん :2017/09/29(金)23:12:02 ID:QPS
http://www.wajimaonsen.com/article_detail/75.html

関係ないけど、前田の内政下手って郷土料理に残るレベルで有名なの?
46名無しさん@おーぷん :2017/09/29(金)23:32:24 ID:dLa
>>45
言わずもがな
47名無しさん@おーぷん :2017/09/29(金)23:32:44 ID:dLa
鬼玄蕃伝説
織田信長最大の敵、石山本願寺の牙城加賀国を平定した功績や
荒山の急襲(約2日で現地入りする脅威的な速さで上杉軍を急襲、三人の指揮官全員討ち取り大圧勝する。)・
賤ヶ岳の奇襲(約10kmの山岳地帯を行軍して約四時間で砦を陥落させ摂津の大名中川清秀を討ち取る。)
第二次鳥越城の戦いの折りに、盛政は一揆勢を追い散らしたちまちの内に鳥越城・二曲城の2城を奪還した。
その時の盛政の活躍は、『信長公記』にも記載されており「比類なき功名である」と絶賛されている。そして、盛政の武勇に敵味方とも恐れと畏敬の念を込めて、鬼玄蕃と呼ぶようになった。
48名無しさん@おーぷん :2017/09/29(金)23:37:41 ID:QPS
>>47
同じ文章ばかり繰り返し投稿するなよ
お前はスクリプト荒らしかよ?
とっくに否定・批判されてんだから、少しはそれに対して答えろ
49名無しさん@おーぷん :2017/09/30(土)00:40:38 ID:fBK()
>>47
これをフリとして猪武者に進化したんやぞ
50名無しさん@おーぷん :2017/09/30(土)00:43:36 ID:fBK()
>>45
関係ないしそもそも隠し田を「残してあげてる」前田利家は内政上手やろ
そんな逸話すらない佐久間盛政よりよっぽどマシ
51名無しさん@おーぷん :2017/09/30(土)02:54:12 ID:Sxn
ある人を持ち上げると、別の人が割を食って低評価されるのよな…
例えば佐久間盛政を持ち上げるとすると、親分の柴田勝家や、先輩の前田利家が「耄碌爺」か「臆病者」扱いになるように。

公平平等に評価出来ないのだろうか?

佐久間盛政に限って言えば、味方の援護も無しに最前線に留まり続けたのは愚かとしか言えない。
勝家本隊が堀秀政を突破出来ない以上は、佐久間はさっさと元居た陣地に戻るべきであり、他の選択肢は無かったであろう。
中川清秀を討ち取っただけで何故満足出来なかったのか?

秀吉軍の弱い部分を見極めて、徹底的に弱点を攻撃しては引き返し、再び弱点を攻めては引き返す事をゲリラ的に続けていれば、
いずれ秀吉軍とて備えの兵が尽きていたはずなのに…

当時の状況は、
「関東北条氏が豊臣家に勝つにはどうすれば良かったか」
なんて無理難題じゃなかった。
秀吉はまだ天下を取ると決まった訳じゃなかったのだし、柴田が覆す可能性はいくらでもあったはずではないか。

それを全てぶち壊して秀吉による早期天下統一に貢献した佐久間が名将な訳が無い。
「秀吉にカネ貰ってわざと負けるように行動していたのではないか」
と疑われても仕方が無いアホっぷりだ。
52名無しさん@おーぷん :2017/09/30(土)03:14:54 ID:fBK()
>>51
公平平等に見るなんてタイムマシン出来ても人それぞれに見方があるし不可能
まして「佐久間盛政は名将!」とかいうバカな見方しか出来んやつがいるくらいだし公平平等なんて求めてもムダ、他の人の良識に任せるしかない

前スレの場合はあからさまに佐久間盛政を擁護してるのが一人と「菅沼の疑いがあるから」わざと佐久間についたのが一人だったからね(http://ikura.open2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1506238929/l10のスレで他人だと確信できて助かった)
菅沼対立ニキは完全に味方にする方を間違えてたわけだ(まさか佐久間キチガイがあんなにキチガイだと思ってなかったわけで)
53名無しさん@おーぷん :2017/09/30(土)03:28:22 ID:fBK()
いかん反論忘れてた
>>44
耄碌というより子の溺愛が大きいかな
それを「耄碌」と言われれば否定できないから耄碌ってことにしたけど
山路・拝郷辺りを失ったのはおそらく勝政救出戦だったはずだし、養子の勝豊に続きもう一人の養子の勝政まで失うわけにはいかなかったんだろうね(特に勝政は勝豊が疎まれた理由でもあるわけだし)
佐久間盛政の舞い戻りは柴田勝家の指示が大きかったように見えた(もちろん佐久間盛政は敵中孤立の責も感じてまた敵に飛び込んだのだろうし、弟の救出ということもあったのだろう)

采配が上手いからといって子を見捨てられるかどうかはまた別問題でしょう
54名無しさん@おーぷん :2017/09/30(土)04:50:37 ID:Sxn
>>53
>佐久間盛政の舞い戻りは柴田勝家の指示が大きかったように見えた

今まで散々命令無視・命令違反を繰り返してきた佐久間が、そこだけは塩らしくなるのかな?
それに、佐久間の撤退が遅すぎたせいで、もうこの時点では柴田勝政は無論、
勝家本隊ですら堀秀政だけじゃなく羽柴秀長からも攻撃されててんてこ舞いの状態。
http://www.ibukiyama1377.sakura.ne.jp/shizugatake/shizuka3.gif
盛政に命令するどころじゃなく、目の前の大軍を何とかしなきゃならん所まで追いつめられてたのでは?

佐久間キチガイ氏が大好きな『一柳家記』によれば、
佐久間盛政は撤退戦に「敗北」したにも関わらず、未だ【一万五千】の兵力を有していたと言う。
こんな大軍勢があったなら、総大将である勝家の援軍に向かった方が良いと思うのだが。

少なくとも撤退の援護を行って最初の陣地にまで引き戻しておけば、
まだ何とか地の利を盾に遅延戦術を行う事は出来たのではないか?
無論、ここでもう「遅延戦術」とか言ってる時点で、戦局はジリ貧以外の何物でもないのだが。

それでも、一週間しないで切腹なんて事態は避けられたろう。
55名無しさん@おーぷん :2017/09/30(土)05:01:16 ID:Sxn
これまた佐久間キチガイ氏が大好きな『佐久間軍記』によれば、
スレ主が言うような、「勝政を救援せよ」という柴田勝家の命令があったような記述はある。
厳密には、勝政隊が苦戦して何人かが浮き足だって撤退し始めていたので、
「味方の逃走を阻止せよ」という命令であったのだが。
陣形を崩してまで勝政を救わずとも、味方の逃走を阻止する方法を何とか考えるべきだったろう。
本当の意味で「軍略家」「知将」であったなら。

なお、佐久間キチガイ氏は都合が悪いからか絶対に引用しないのだが、
同じ『佐久間軍記』の中に前田利家の動向も掲載されている。

前田利家は柴田勝政の苦境を見て、即座に撤退を決断したのではない。
むしろ、柴田勝政に使いを送って、
「どうやら苦戦しているご様子なので、我が軍が換わろう」
と柴田勝政に提案しているのだ。

しかし、この提案を蹴飛ばしたのは柴田勝政である。
しかも、目の前の丹羽隊や桑山隊、秀吉本隊と交戦するだけではなく、
せっかく善意の申し出をしてくれた前田隊に

攻 撃 を し か け た

という記載まである。

柴田勝豊は、佐久間盛政や柴田勝政の「傲慢さ」を嫌って秀吉に寝返ったという話が『柴田合戦記』にあるが、
善意の申し出を蹴飛ばして攻撃を仕掛けている勝政の姿を見る限り、確かに「傲慢」としか言いようが無かろう。
56名無しさん@おーぷん :2017/09/30(土)05:03:51 ID:Sxn
http://niccorin.com/archives/49656201.html

と思ったら、佐久間キチガイ氏は、自分できちんと引用してるのなw
読解力0なので、自分が何を書いてるのか理解出来てないっぽいけど。
57名無しさん@おーぷん :2017/09/30(土)08:33:15 ID:fBK()
>>54
そんな大軍勢あったら府中で農民に捕らえられるなどあるわけがない(というか15000人残る大将が道中の農民に捕らわれるなど無能の極み)
とは言うもののそもそもそんな大軍勢があると仮定するなら、「金沢まで逃げる」より先に「北之庄で柴田勝家を助ける」を優先すべきだからどちらにせよ無能

佐久間が塩らしくなったタイミングというならよほど大岩山での失態が堪えたのかと
たしか秀吉との対面の際に「中川を討った功績をフイにした」的なこと言って「願わくば賤ヶ岳の戦犯として処刑されたし」的なこと言ってたはず(記憶が曖昧で申し訳ないが)
あの猪武者の佐久間盛政がこれだけ言うのは相当罪の重さを自覚してたはずでもしも柴田勝家の指示があったら今度は聞くはず

しかも撤退した佐久間盛政隊に含まれていただろう山路・拝郷も勝政救援に駆り出されてるのは「全軍はできるだけ勝政を助けつつ撤退せよ」の指示はあったように見える、というよりいくら本陣に殺到してるからといってこの一言すら言えないのはさすがに指揮官としてどうかと

前田らの撤退の決断はここで既にされてて(どうみても敗勢なのはあれだけ敵中に留まり続けた佐久間が撤退したことでわかってるはず)撤退できるようになった時間がたまたま佐久間盛政と秀吉との決戦時だったってだけでしょう

>>56
そら「太閤記」と「佐久間軍記」の両者に書かれたはずの柴田勝家の撤退指示を「太閤記」に書かれたってだけで「疑わしい」とか言っちゃう人ですし
そりゃ史料批判として学者をバカにしてるとしか思わんよね
58名無しさん@おーぷん :2017/09/30(土)08:55:33 ID:Sxn
>>57
佐久間軍記で、前田利家が柴田勝政に「我が軍が敵を引き受けよう」と提案を行ったという記述は間違い?

まあ仰る通り、前田の撤退は既に合戦の行く末が把握出来る頃に始まったものであって、
(馬鹿一名は理解出来ない様子だが)
『前田が撤退したから柴田軍全軍が敗北した』
なんて言える筋合いではない事だけは確かだが。

佐久間軍記の記述が正しいとするなら、前田は日和見だとか戦意が無かったとか、
『最初っから秀吉に通じていた』
なんて妄想は成り立たず、むしろ積極的に合戦に参加しようという意欲が有った事の証明になるのだが…
59名無しさん@おーぷん :2017/09/30(土)10:44:59 ID:fBK()
>>58
賤ヶ岳での前田利家の動きが見えなすぎるからなんとも…
ただ佐久間軍記のほうが辻褄は合ってるように見えるか
>>57を訂正するなら柴田勝家の指示は「全軍柴田勝政を救え」で前田利家は柴田勝政の救援拒否によって撤退せざるを得なかったってとこか
…特に何も出てこない金森と不破のほうがよっぽど重罪な気がする…
60名無しさん@おーぷん :2017/09/30(土)14:15:43 ID:Sxn
>>59
前田が茂山にまで出張ったって事は、一応戦う意志が有ったって事だよね?
直接戦闘しないにしても、最低でも後方の守りと支援は任せろってな感じで。

賤ヶ岳に布陣した当初の段階で前田利家がやる気を無くしてたとか、もしくは秀吉に通じてたってのはあり得ないと思う。
実際、前田隊も無傷で悠々と撤退したのではなく、秀吉軍の追撃を食らって戦死者まで出してるのだし。

前田利家が決定的にやる気を無くしたのは、
「佐久間盛政の命令無視の居座りとその後の撃破」
「柴田勝政の救援拒絶&攻撃」
で立つ瀬が無くなったからと考えるのが自然だよね。
61名無しさん@おーぷん :2017/09/30(土)15:09:58 ID:fBK()
>>60
自然やな
それだと前田利家は戦犯になりようもないけど(むしろ撤退に追い込んだ勝政兄弟の方が戦犯か)
62名無しさん@おーぷん :2017/10/05(木)01:44:54 ID:UP0()
あいつ諦めて秀吉に行ったのかな?
よく知らんけど

このスレをもう使わなくて済むことを祈る
63名無しさん@おーぷん :2017/10/09(月)20:29:01 ID:8gu
賤ヶ岳の戦いの柴田方の敗因(史実)
https://matome.naver.jp/m/odai/2150737501689472901
64名無しさん@おーぷん :2017/10/10(火)01:20:53 ID:C3h()
>>63
うーんこの単なる感想文
65 :2017/10/10(火)03:14:08 ID:pzu
>>63
佐久間本人が「勝家様の命令を聞いていれば~」と語ってんのに何で無視するんだか
66 :2017/10/10(火)12:04:18 ID:pzu
前田利家の内政下手と佐久間盛政の内政上手みたいに言っていたが、それも嘘だった…

https://www.amazon.co.jp/本当は危ない『論語』-NHK出版新書-加藤-徹/dp/4140883413

元々、日本人の大半、特に武士階級は、論語や儒教を受容していなかった。
当然、儒教的な概念である「民を大事にせよ」などという価値観も無かったと言って良い。
(皇室や京都公家には儒教も存在していたが政治権力を失って久しかった)

実は、日本の大名で、初めて論語とか儒教統治理論に着目したのは、徳川家康ではない。
前田利家であったのだ。
秀吉が亡くなった時、加藤清正や宇喜多秀家、浅野長政などを集めて、前田利家は論語から「以て六尺の孤を託すべし」の一節を引用。
秀頼様が幼い現在、この言葉を忘れる者は忠臣に非ずと居並ぶ諸大名たちを戒めたという。
とっさの時に論語の言葉がスラスラ出てくるほど前田利家は儒教の素養が深かった。

自身、熱心な論語愛読者になった加藤清正がそう語っているのだ。

加藤清正は若い時から前田利家に論語を読むように強く推奨されていた。
その言葉を無視し続けていたある日、難治の国、肥後25万石の大名に抜擢されてしまった。
このような大領土を統治した経験など無く、ましてや前任者の佐々が一揆を起こされたような国を治めるのにどうすれば良いか…
藁にもすがる思いで論語が解る者に音読させてみた所、難治の国を治める素晴らしい方法が見つかり、今に伝わる「神様」のような熊本統治に繋がったのだという。
以後清正は、片時も論語を手放さない武将に成長した。
前田利家の忠告をもっと早くに聞いておかなかった事を清正は後悔したという。

一向一揆の国を前田家が治められたのは「佐久間の恐怖政治のお陰」などではない。
前田利家から、五代目綱紀の代まで続く、江戸幕府に先駆けた儒教的徳治政治のお陰である。
67 :2017/10/10(火)12:15:11 ID:pzu
熊本の加藤清正の墓の近くには、「論語猿」の石像がある。
前田利家が死に、豊臣恩顧の大名も死ぬか家康に味方するかとなって秀頼を支えようたとする大名が残り少なくなっていた時期の事である。
加藤清正はそれでも秀頼を守ろうと孤軍奮闘し、何とか二条城で家康と秀頼の平和会見を実現する。
その帰途に発病して帰らぬ人となったわけだが、清正は論語を毎日読んでいたので、それを真似した清正のペットの猿が、滅茶苦茶に落書きしてしまったという。
清正は別に怒る事もなく、「お前も聖人の教えが学びたいか」と述べた逸話があるが、
そもそも前田利家が熱心に論語を推奨して回らなければ、加藤清正が論語を知る事は無かっただろう。
当然、熊本県民に敬慕される「清正公」の統治も全く違った形になっていたはずだ。
このような影響力を持つ前田利家が、自分の国に限って統治が下手だったとは到底思えない。
68名無しさん@おーぷん :2017/10/10(火)15:08:52 ID:C3h()
そもそも佐久間盛政の政治の評価って
<鬼玄蕃の悪名>
加賀で一向一揆と激戦を行い、残党狩りも行った佐久間盛政は、死後も加賀の人々から恐れられたという。
佐久間勢に追い詰められて村人が玉砕あるいは全員が自殺して長く無人になったという地域もあり、その凄まじさは現地の地名に残っている。
対して前田利家が加賀を領有して以降、前田家の統治の元で加賀は繁栄した。
これは盛政の時代には先ず敵対勢力を掃討する必要があったからで、決して盛政が悪政家だったわけではない。
しかし当時を生きた人々からすれば盛政は恐ろしい武将であり、その記憶が語り継がれた。
『越登賀三州志』には、
・加賀国の人民は佐久間盛政の苛政に苦しめられた。前田利家公は仁政を敷いたので加賀の人民から慕われた。
と記されている。

これと百間堀を掘った以外にあるの?
この『越登賀三州志』を真に受けるのもあり得ないんだが他に史料系で政治面の評価が(百間堀以外に)見つからん
69 :2017/10/11(水)04:04:05 ID:uXo
尾山城から、金沢城に本拠を移して、「金沢」という地名を付けた事くらいかな…
なお場所の選定は信長がやったらしいし、今に伝わる百万石規模の巨城に作り替えたのは前田家であるが。
70名無しさん@おーぷん :2017/10/11(水)07:18:56 ID:JIn()
場所選定なら尾山城=金沢城でもともと中心地だったわけであの地域で金沢の地を選ぶのは当然の流れ、さらに金沢の地名ももともと室町時代にあったもの(一揆時に使われた尾山の名前を忌み嫌ったのだろう)であって名付けた以上のものはない

そもそも前スレ>>100あたりで内政に関する史料がないことが佐久間キチガイによって言われてて、よほどの史料がこれから出てこない限り『越登賀三州志』の盛政像を否定できない
71名無しさん@おーぷん :2017/10/11(水)09:36:08 ID:uXo
尾山って名前の通り金沢の端っことかに在ったんでなかったっけ?
一応場所はほんのちょっとずれてると思ったが…

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/金沢城
>なお、金沢の地名は室町時代の文明年間には既に存在していたことが知られている[2]が、
>尾山御坊時代は金沢の小立野台地の先端すなわち山尾(尾山)にあったことから尾山の呼称が使われていた。
>佐久間盛政が新城を築いた時に一向一揆の印象が強い尾山ではなく金沢を城名に用いたが、
>前田利家が入城すると羽柴秀吉(豊臣政権)に敵対して滅ぼされた盛政命名の金沢城ではなく自身の出身地の尾張国にも通じる尾山を採用した。
>だが、金沢の地名が広く知られていたために尾山城の名前は普及せず(豊臣政権の公文書でもほとんど用いられていない)、
>利家自身も再び金沢の城名を用い始めたと推測されている
72名無しさん@おーぷん :2017/10/11(水)11:20:30 ID:JIn()
うーん…少しずれてるとはいえそもそも一帯が金沢と呼ばれてたから金沢城にした以上のことはないかと、利家も同地域を「尾山」と呼ぶこともあったようだし
利家も前の為政者のイメージ払拭に名前を変えたわけだし同様のことを佐久間盛政もしたのではないだろうか
73名無しさん@おーぷん :2017/10/11(水)15:30:10 ID:uXo
まあ、縄張りやって城を作っても現存してないし、
そもそも実戦に用いられた試しが無いから堅城、名城なのかも不明だし、
金沢という地名はどこかの文献に因ったのではなく元々の地名だったようだし、

「佐久間盛政の功績」とやらは、やっぱり0だねぇ
74名無しさん@おーぷん :2017/10/14(土)09:14:43 ID:EGR()
話題尽きたっぽいし前スレ>>1としての菅沼への見解と佐久間盛政が嫌われる理由を言っとくか

佐久間盛政が嫌われる理由だが、こっちは菅沼とは違い本家でいまだに「佐久間はサイキョー」とか言って褒めて猪武者程度の佐久間を上げて戦国時代スレを潰し続けてるから(今回も案の定、全く納得いかない駄説しか言ってくれない)
しかも自上げを続けて別日にさらに上げで自演していくスタイル、最後のレスを付けないと気が済まない性格、時にはアク禁を多用していくスタイルなど行動にも嫌われる要素満載なのは気づいてほしい
これらを本家でやられてたから実害的に菅沼より嫌いやな、菅沼とか本家じゃワンランク上のガイジ扱いで本家とかいう俗世に降りてくるわけじゃないから…
なので菅沼は今のところどうでもいいです(これでもし本家に菅沼持ち込まれたら単に戦国スレ潰したいだけという菅沼の希望に反することが起きてるわけだから菅沼じゃなくただの菅沼を騙った煽りと証明できるので都合よし)
そもそも武田信玄レベルなら戦国No.1と思う人間なら許せるしそれに反論して信長らを戦国No.1と言うのも全く問題はないから議論しても構わないとは思う

だからこそ早急に佐久間盛政の方を片付けた方がよっぽど菅沼対策になるかなと(これなのに菅沼憎しのみで佐久間盛政方についたのおったけど個人的には佐久間の方がよっぽど嫌い)
75名無しさん@おーぷん :2017/10/14(土)17:41:28 ID:pzb
同意。
相手の指摘に耳を傾けようとしない時点で終わってる。
もしくは自分に都合よく解釈したり。

「前田利家は敵前逃亡どころか柴田勝政に援軍の打診すら行っていた。しかし勝政は拒絶するどころか前田隊に攻撃を行った」

資料に書いてあり、己が引用した事ですらまともに読めないのだから話にならん。
76名無しさん@おーぷん :2017/10/14(土)21:02:44 ID:6K7
>>74
>>75
https://matome.naver.jp/m/odai/2150737501689472901
77名無しさん@おーぷん :2017/10/15(日)07:28:38 ID:Km8()
>>76
賤ヶ岳の戦いの柴田軍の敗因 
『柴田合戦記』 
・賤ヶ岳の戦いのすぐ後に成立。著者は大村由己(秀吉の祐筆) 
・柴田勝豊が秀吉に降ったのは、勝豊が傲慢な佐久間盛政を嫌っていたため。 
・羽柴軍の砦を襲撃した盛政の活躍と雄姿を絶賛している。 
・奇襲作戦については、それを柴田軍の敗因とは記していない。柴田軍が出てきたことを秀吉が喜んだ描写はあるが、あくまで堂々と決戦しようという 
意気込みである。 
・秀吉の帰還を知った柴田軍は動揺したが、総大将の柴田勝家は立派な人物だったので将兵は必死に戦い、柴田軍・羽柴軍ともに多数の戦死者が出た。 
『太閤記』 
・成立は江戸時代初期。著者は小瀬甫庵(前田家の家臣) 
・秀吉と関係ない、前田家が活躍した北陸の合戦も詳細に記述。そのおかげで荒山合戦での盛政の活躍もしっかり描写されている。 
・柴田勝豊が秀吉に降った理由は、『柴田合戦記』のそれに加えて、柴田勝家が問題のある人物だったから。ただし降伏した柴田勝豊を厳しく批判もしている。 
・奇襲作戦の経緯として、織田信孝を救援する手立てが必要となり、山路正国が奇襲作戦を盛政に提案。盛政は賛成して柴田勝家に進言し、その際に柴田勝家から戦果を挙げたらすぐに引き揚げるよう命じられた。 
盛政は大岩山、岩崎山を奪取した後、勝家に催促されても引き上げなかった。そうしている内に秀吉が近江へ帰還した。 
・ただし撤退戦では奇襲部隊も柴田勝政の軍勢も奮戦したことが詳しく描写されている。 
・茂山に前田利家が布陣していることを頼みにして、盛政は羽柴軍に決戦を挑もうとしたが、続々と集結する羽柴の大軍を見て北国勢の後方にいた部隊が逃げ出した。そこへ羽柴軍が総攻撃を行って勝利した。 
・羽柴軍に囚われた盛政の発言「勝家様の指示通りに引き上げていれば、こんなことにはならなかった。戦果を敗北で失わず、上方勢を侮らなければ~~」 
・盛政は処刑される際、顔色一つ変えず首を刎ねられた。 

『太閤記』では盛政の慢心が敗北を招いたが、撤退戦での活躍や敵前逃亡した部隊のことも記されている。 
敵前逃亡があったことについて、『太閤記』と同時期に成立したとみられる史料の記述を並べてみる。 

『渡辺勘兵衛記』 
・撤退戦で奇襲部隊は善戦。 
・柴田勝政の軍勢は羽柴軍の銃撃を受けて負傷者多数、そこへ羽柴軍が攻めかかったので総崩れに。しかし尾根道の高みに2千ばかりの敵軍が布陣していたので、 
勝政勢は(友軍を頼みにして)そこで踏みとどまった。 
・両軍は二時ほど睨み合っていたが、急に柴田方が動揺して崩れたので、羽柴軍が追撃して勝利した。 
・奇襲作戦が柴田軍の敗因とは記されていない。
・『太閤記』には渡辺勘兵衛の活躍も記されており、『渡辺勘兵衛記』の方が先に成立していて小瀬甫庵が参考にしたか、渡辺勘兵衛に取材した可能性が考えられる。

『一柳家記』 
・秀吉は夜通しで近江へ帰還。羽柴軍は翌日の午前3時頃に大岩山へ攻めかかる。 
・盛政はすでに撤退を始めていたが、大軍だったので午前4時頃まで掛かった。奇襲部隊の撤退は速かった。 
・北国軍(奇襲部隊か勝政勢)が雨のように矢を放ち羽柴軍を足止め。盛政は諸将の軍勢を集め、殿軍を務める軍勢を待ち、引き返して羽柴軍と戦うことを繰り返しながら撤退。羽柴軍にとって厳しい戦いだった。 
・やがて盛政勢(勝政勢?)は敗北し、敵味方入り乱れて凄まじい追撃戦が行われた。 
・盛政は敗北した軍勢を収容し、1万5千の軍勢を集結させて辺りで一番高い山に陣取り、決戦の構えを見せた。 
・羽柴軍の先鋒部隊は負傷者が出て疲労もしていたので休息。その間に秀吉が旗本部隊を率いて到着。後続も到着して羽柴軍は大軍になった。 
・決戦が始まり、まず羽柴軍から攻撃を仕掛けたが、北国軍の弓と鉄砲の射撃により羽柴軍に多数の死傷者が出た。 
・藤堂高虎の手勢が北国軍と銃撃戦を行い、さらに(北国軍と羽柴軍が)接近戦をしばらく行っていると、盛政の陣地に何らかの異変があって北国軍は敗北した。 
・その異変とは、馬が暴れて諸将の軍勢が驚いた、喧嘩が起きた、あるいは謀反人がいた、のいずれかである。 
・羽柴軍は勝ちに乗じて追撃を行った。北国軍は敗走したが、引き返して戦い討死した者も大勢いた。 
『江州余吾庄合戦覚書』 
・撤退戦における奇襲部隊と勝政勢の善戦振りは、他の史料とほぼ同じ。 
・盛政は事前に撤退することも想定していて、退路に部隊を置いていた。そのため撤退は上手く進んだ。 
・だが(撤退を支援するために配置された)後方にいた部隊が逃走したため、敗北した。 
78名無しさん@おーぷん :2017/10/15(日)07:28:54 ID:Km8()
続き
『佐久間軍記』 
・秀吉は柴田軍の陣地を見て、防戦に努めることを決めた。 
・柴田勝家は佐久間盛政、中川の砦を攻め落としたらすぐに戻れと命じた。 
・大岩山を占拠した後、盛政は羽柴秀長の陣を攻めるために現地に留まった。 
・柴田勝政の軍勢が羽柴軍と戦ったとき、何人かが北陸方面へ逃走した。柴田勝家はその様子を見て、盛政に味方の逃走を阻止するよう指示を伝えた。 
・前田利家は軍勢を率いて移動し、柴田勝政に対して「貴公の軍勢は苦戦したので、我が軍勢が替わろう」と言ったが、柴田勝政は断った。前田利家と柴田勝政の兵が喧嘩を起こした。 
・佐久間七右衛門という人物が兵の逃亡を阻止しようとしたところ、騒動になった。 
79名無しさん@おーぷん :2017/10/15(日)07:29:36 ID:Km8()
>>76-78の続き
各史料で合戦の様子には差異があるものの、前田利家の撤退は羽柴軍の総攻撃を受ける前の自壊から始まり、それは盛政兄弟の突出により生じた動揺と混乱がもたらしたものであることが分かる。 
しかし戦後の事実として、 
・秀吉は前田家に加賀北部の2郡を加増した。 
ことを考えると、逃走した前田利家の軍勢だと推測し賤ヶ岳の戦いでの勝利を前田利家のおかげと小瀬は記した。 

そしてこの戦線離脱が原因で、奇襲部隊そして柴田軍は敗北したことになった。戦場から離脱した金森長近は後の武功もあり飛騨一国を安堵される。
また逃亡したのが一切の責任であれば、前田家家臣の小瀬甫庵は『太閤記』で撤退した部隊がいたことなど書くことはしなかっただろうし、秀吉の勝因となったこの逃走した部隊を率いた武将の名前をはっきり記しただろう。 
こうしてみると「前田利家がなんの前触れもなく撤退した」や「利家の撤退が敗北を招いた」という一般論も疑わしくなってくる。 
ただし『太閤記』を読んだ当時の前田家の人々や著者の小瀬甫庵には葛藤があったかもしれない。 
『太閤記』の記述だけでは、前田勢が加賀の国主になるには不十分な功績だからである。
――加賀百万石の繁栄の基礎を築いた偉大な藩祖と二代目の理由を記すことができない。賤ヶ岳の秀吉勝利の功績を前田利家にしてみるが、盛政の罪を記す。読者には察してほしい。 
なお当時の前田家当主は三代目の前田利常で、当事者だった父と兄は故人で意見を求めることはできなかった。 
また賤ヶ岳の戦いは織田家中の内紛であり、合戦当時も盛政の行動はなぜか世間から咎められず、江戸時代になってから価値観の変化で突撃は美談とされるようになり各史料は盛政の突出を良かったかのように記述した、という可能性も考えられる。 
賤ヶ岳の戦いにおいて、奇襲作戦が成功して秀吉が戻ってくるまでの間、つまり柴田軍が優勢だった時も、山路の他に柴田軍へ戻った武将は結局一人もいなかった。
ゆえに敗因は佐久間盛政兄弟の突出だったと裏付けられる

これで良い
80名無しさん@おーぷん :2017/10/15(日)07:39:12 ID:Km8()
結論が全く逆でも通じる文章になる内容の推測ではなんの証明にもならない
この程度の文章の改変で結論を逆にできる説など全く説得力はない
そもそも今まで発見されたどの書物も前田利家の行動は咎めてないわけだし

結局のところ賤ヶ岳の戦い起きた事実は佐久間盛政の奇襲→清秀討死と秀吉の帰還→柴田全軍撤退(→即柴田滅亡)なのでここから推測するしかない
81名無しさん@おーぷん :2017/10/15(日)16:28:28 ID:eBT
>>76
自分で引用した物の中に、
「前田利家は敵前逃亡どころか、柴田勝政に援軍の申し出をしていた」
と書いてある資料があるじゃん。
『佐久間軍記』の記述は読めないの?
82名無しさん@おーぷん :2017/10/15(日)22:26:15 ID:HcT
>>81
https://matome.naver.jp/m/odai/2150737501689472901
考証という言葉も知らないキチガイは黙れ
83名無しさん@おーぷん :2017/10/16(月)01:12:16 ID:1rS()
>>82
煽りワードと方法が上手すぎて佐久間の者じゃないな

さておき考証とは史料の記述を元に調査することであり決して推測のみで考えてはいけない、そのリンク先の文章は「結論」以降は残念ながら単なる筆者の推測でしかない(結論の差し替え程度ならもうやった)
『佐久間軍記』の記述である以上は前田利家による柴田勝政への援軍は当然考証にあたる内容

それとも佐久間盛政の同族が書いた史料でそちらのまとめサイトにも掲載されてる『佐久間軍記』もあてにならん史料だとでも言うのだろうか?

どちらにしても考証という言葉を知らなかったのはあなたの方だろう

佐久間キチガイのふりして何も考えずに佐久間の文章使って煽ろうとしただけやろなあ…
84名無しさん@おーぷん :2017/10/16(月)06:15:16 ID:JxB
>>82
https://dictionary.goo.ne.jp/jn/73343/meaning/m0u/
考証の正しい意味を国語辞書で調べてきなさい。
自分で引用した佐久間軍記の記述すら無視して、最初から用意している「結論」に持っていく事は「考証」ではない。

例えば、何らの資料も証拠も無く、
「お前は殺人犯でレイプ魔で下着泥棒の前科持ち」
と決めつけ、その前提から都合が良い資料や証拠をかき集めてくる事を「考証」と言うのか?w
85名無しさん@おーぷん :2017/10/16(月)06:17:18 ID:JxB
・前田利家は軍勢を率いて移動し、柴田勝政に対して「貴公の軍勢は苦戦したので、我が軍勢が替わろう」と言ったが、柴田勝政は断った。前田利家と柴田勝政の兵が喧嘩を起こした。
・前田利家は軍勢を率いて移動し、柴田勝政に対して「貴公の軍勢は苦戦したので、我が軍勢が替わろう」と言ったが、柴田勝政は断った。前田利家と柴田勝政の兵が喧嘩を起こした。
・前田利家は軍勢を率いて移動し、柴田勝政に対して「貴公の軍勢は苦戦したので、我が軍勢が替わろう」と言ったが、柴田勝政は断った。前田利家と柴田勝政の兵が喧嘩を起こした。
・前田利家は軍勢を率いて移動し、柴田勝政に対して「貴公の軍勢は苦戦したので、我が軍勢が替わろう」と言ったが、柴田勝政は断った。前田利家と柴田勝政の兵が喧嘩を起こした。
・前田利家は軍勢を率いて移動し、柴田勝政に対して「貴公の軍勢は苦戦したので、我が軍勢が替わろう」と言ったが、柴田勝政は断った。前田利家と柴田勝政の兵が喧嘩を起こした。

日本語が読めますか、佐久間キチガイくん?
86名無しさん@おーぷん :2017/10/17(火)22:45:33 ID:I4U
>>84
>>85
もう一回読め。https://matome.naver.jp/m/odai/2150737501689472901
87名無しさん@おーぷん :2017/10/18(水)01:13:42 ID:mz6()
>>86
とりあえず、>>85の反論にそのリンクを貼るってことからあなたがそのリンク先の文章を全く読んでいないことはわかった。
88名無しさん@おーぷん :2017/10/18(水)09:29:14 ID:hmQ
>>86
日本語が読めないの?

・前田利家は軍勢を率いて移動し、柴田勝政に対して「貴公の軍勢は苦戦したので、我が軍勢が替わろう」と言ったが、柴田勝政は断った。前田利家と柴田勝政の兵が喧嘩を起こした
89名無しさん@おーぷん :2017/10/18(水)09:30:41 ID:hmQ
【考証】
[名](スル)古い文献や物品などを調べ、それを証拠として昔の物事を説明したり解釈したりすること

古い文献に書いてある事を根拠にしない「考証」って何ですか?
考証じゃなくて「妄想」ですよね?
90名無しさん@おーぷん :2017/10/18(水)10:04:57 ID:mz6()
>>88
>>89
そもそも「佐久間と言えばあの文章だな」って横流しでリンク貼ってるだけだから読んですらいないんでしょ
あんな駄文を全部頭の中に叩き込んでるやつはそういないだろうし
91名無しさん@おーぷん :2017/10/18(水)18:51:12 ID:hmQ
>>90
勘弁してほしいですね…
最低限、資料くらいはまともに読んでほしいものです。
しかも『佐久間軍記』って、散々こいつが「読め」「読め」と言い募ってきた文献じゃないんですかね?
92名無しさん@おーぷん :2017/10/18(水)23:40:25 ID:mz6()
>>91
個人的には菅沼狩りのためのファッションガイジに代替わりしたとしか見てないから何とも
なぜかおんjに「菅沼」のクソスレ立ってたし
93名無しさん@おーぷん :2017/10/19(木)21:00:45 ID:DWG
元々の人数その物が柴田が劣勢なのに、地の利も人の和も放り捨てたなら勝てるわけありませんわ。
佐久間盛政が地の利を放り捨て、柴田勝政が人の和を放り捨てたのだから、前田利家の存在なんか関係なしに負けてたね。
94名無しさん@おーぷん :2017/10/20(金)14:57:52 ID:6A3()
天の利すら清洲会議(佐久間の奇襲もそうだが)の時点で失ってるから何一つ揃ってないね…
前田利家とかいう問題じゃない
95名無しさん@おーぷん :2017/10/20(金)17:54:22 ID:Yl0
唯一理解出来ないのは、佐久間軍記の記述、
「前田利家は援軍を申し出たのだが、柴田勝政が拒否した上に攻撃した」
という部分。

丹羽長秀や秀吉本隊に囲まれてる状況では、頭を下げてでも柴田勝政は前田利家に援軍を頼むべきだったんじゃないの?
何で援軍を拒否ったのか?
元々仲が悪かったのかな?
手柄を独り占めにしたかった?
96名無しさん@おーぷん :2017/10/20(金)18:30:27 ID:6A3()
手柄の独り占めであればわざわざ前田利家に手出しする理由はないし撤退させればいい、しかも佐久間盛政の救援は受けるのが矛盾になるからその線はかなり低いかと

かといって仲が悪かったのみであの状況の援軍を断るのは戦況を理解しなさすぎだと思う 

このタイミングで既に前田利家らが秀吉に通じている、あるいは通じているとの偽報なりがあれば背後奇襲の線が残るから、このあたりが理由としては一番まともか?
97名無しさん@おーぷん :2017/10/20(金)20:17:15 ID:Yl0
少なくとも、前田利家がなんか怪しいという何らかの噂は流れてたのかな?

でも、前田だって無傷で戦場を脱出出来た訳じゃなく、戦死者も出してるんだよね。

賤ヶ岳の時点での前田利家の位置付けや評価が解らんのだな。

もしも太閤記か何かの記述通り、「秀吉と仲良しだった」という事が知れ渡っていたのなら、
柴田勝家だって前田を選ばず佐々成政を連れていったろう。
柴田勝家が選んでも、その他の織田家関係武将が反対するはず。

それとも「信頼出来ないから」、柴田勝家の監視下に置いておきたかったのか?
ならば、後方ではなく最前線に置いて槍働きさせるはずだし…
98名無しさん@おーぷん :2017/10/21(土)02:46:47 ID:5Kz()
(その説を取るなら)本来は柴田勝政(or佐久間盛政)が監視役だったか、佐久間盛政と一緒に前田利家も撤退させたかったのかの二択かと
それが佐久間盛政の戦線維持で機能しなくなったってことでは(柴田勝家はこの時点では佐久間盛政は帰ってくると考えてるはず)

途中の前田利家のみを北陸に置いていくことは考えづらいな
秀吉とのほぼ全勢力を挙げた戦いの最中に前田利家が領地を奪うことがあったらそれこそ最悪だろうし、かといって佐々以上の兵を残すとそれこそ秀吉戦線の兵が減るわけで、前田利家は連れていかざるを得ない(もちろん地理的要因もあるとは思うが)
たぶん北陸に残った主な将は佐々くらいしかいないはず

そもそも茂山砦も前線に含むんじゃないのか?
佐久間盛政の突出で最前線が霞んでるけど、前田利家が布陣した茂山砦自体も羽柴の陣がある東野山・堂木山両砦より南にあってかなり危険な位置に見えるが…

ただ、前田利家が賤ヶ岳の戦いでどういう位置付けかはやっぱりわからんとしか言えない
撤退した事実と「佐久間軍記」のその部分を見たらいわゆる「太閤記」の「前田利家が通じてた」と思われてたと考えるのが妥当と思っただけやな
99名無しさん@おーぷん :2017/10/21(土)02:48:54 ID:5Kz()
ただ前田利家の撤退とは別の事象として佐久間盛政の突出は起きてるから前田利家の立場はわざと無視してた部分が大きい(前田利家がどんな立場であろうと佐久間盛政の評価には関係ないので)
100名無しさん@おーぷん :2017/10/21(土)10:12:10 ID:sRZ
>>98
噂はどうであっても、前田利家と秀吉との間に「密約」みたいな物は全く無かったと言っても良いよね。
現に戦死者が出ているのだし、前田利家は北ノ庄城攻めの先鋒を志願せねばならなかった。
佐久間キチガイが好んで持ち出す、前田利家が十万石を貰ったというのは、秀吉との密約でも何でもなく北ノ庄城攻めの先鋒の功績であろう。
金森長近や不破勝光が北ノ庄城攻めに参加したという資料は見つからない。
単に「秀吉に降伏した」「前田利家に従った」と出てくるだけだ。
実際、不破家は前田家家臣として幕末まで続いたようである。
前田利家と不破勝光の両者に与えられたのが、加賀十万石というのでは、公平に分けたとしても前田利家の取り分は五万石であろう。

佐久間盛政の評価と前田利家の動向には全く関係が無いと指摘するのは同意。
前田利家じゃなく、佐々成政が賤ヶ岳の前田ポジションであろうとも、
突出する馬鹿の猪武者の面倒など見切れないであろう。
101名無しさん@おーぷん :2017/10/21(土)13:30:26 ID:5Kz()
佐久間盛政について話しても突出が完全なる敗因であり、現時点で猪武者としてしか評価出来ない以上は、佐久間盛政について話しても進展ないし、論点のすり替えを防ぐために前田利家の賤ヶ岳の戦いでの位置付けの考察はしてもいいのかもしれんが

>>100
うーん…密約は見受けられないとは思うのだが…

全くなかったと言い切るにはあまりに手際が良すぎるのが不自然で密約を疑りたくはなるかな…(撤退だけでなく北ノ庄への先鋒を買って出て一週間で柴田勝家を自刃に追い込み加賀半国を貰ってる)
戦死者にしても「佐久間盛政が軍律無視の突出してる時点で味方が混乱してた」とか言われたらもう反論できないし
102名無しさん@おーぷん :2017/10/21(土)17:46:30 ID:sRZ
>>101
前田隊の戦死者って、撤退途中に起こっていたのでは?
「早々に撤退していたから前田は無傷」みたいな甘い話ではなく、
命からがら府中城に逃げ帰った感じだし、その後も秀吉が府中城を攻めてくる危険性も考えて籠城姿勢を見せていたみたいだし。

まあ、簡単に寝返ってしまえば軽く見られてしまうので、
「己を高く売り付けようとした」とも解釈出来るが。

秀吉が、前田利家なんかイラネとか思えば一息に踏み潰されていただろう。

柴田勝家に関しては、既に賤ヶ岳で敗北した時点で手持ちの兵隊のほぼ全てを失っていたんじゃないの?
103名無しさん@おーぷん :2017/10/21(土)22:11:59 ID:5Kz()
>>102
命からがら逃げていたとなると今度は北ノ庄攻めはどうして出来たのかが謎になる
ある程度は兵力残ってないと柴田攻めの先鋒なんて出来ないのでは?
104名無しさん@おーぷん :2017/10/21(土)22:46:19 ID:EZ0
>>103
矛盾だよな?
105名無しさん@おーぷん :2017/10/22(日)02:51:53 ID:BR0()
>>104
その一言じゃ議論進まないからもうちょい突っ込んだ情報ください…
106名無しさん@おーぷん :2017/10/22(日)07:13:54 ID:qsd
>>103
賤ヶ岳の敗残兵の編成し直した分と、府中城の全軍では?
府中城には、籠城戦の準備が行える程度には、まだ兵力が残っていたみたいだし。

最早柴田勝家に手持ちの兵隊が居ない以上は、府中城を空っぽにして出撃しても大丈夫だろうし。
107名無しさん@おーぷん :2017/10/22(日)11:11:14 ID:BR0()
>>106
籠城戦の準備を行える兵力ってだけならそんなに多くはないはず、おそらく百もいれば足りるだろう(というより北ノ庄や府中は籠城分の兵力程度は残してあるだろう)

もともと少数の前田利家だけが敗残兵ボロボロ、かつ府中に兵を残す理由も無いのに北ノ庄攻めの兵が残ってて、もともと多数の柴田勝家は敗残兵と北ノ庄の兵まとめても籠城の兵すらいないって言うのはさすがに筋が通らん…
いくらなんでも敗残兵の数は母数も考えて柴田勝家>前田利家だろうし、北ノ庄に残る兵が府中に残る兵より少ないことも考えづらい
108名無しさん@おーぷん :2017/10/25(水)14:20:34 ID:57x()
論を一歩進めると、北ノ庄攻めの存在から前田利家は裏切ることをある程度想定しつつ動いていたことが証明されるため、柴田勝家に心酔してたということは確実に否定でき、自身の利を重視してた
ここまで確定で問題はないはず

また、同時に柴田軍が勝勢、あるいは五分ならそもそも自身の利を重んじる姿勢の前田利家の茂山からの撤退などあり得ないことも確認したい
109名無しさん@おーぷん :2017/10/25(水)21:43:20 ID:oYL
>>108
じゃ完全なる敵前逃亡ってことね
110名無しさん@おーぷん :2017/10/26(木)00:47:54 ID:9Eb()
>>109
拙速さが佐久間レベルで草
撤退についてあの文章は何も触れてないぞ
111名無しさん@おーぷん :2017/10/27(金)23:37:20 ID:hUW()
なんなら敵前逃亡が前田利家の利にならないって言ってるくらいなんだけどそれすら読めないのか

キチガイ装って話を終わらせようとしてるのかな?
112名無しさん@おーぷん :2017/11/02(木)19:53:56 ID:YbH
>>111
結局、利してる。
113名無しさん@おーぷん :2017/11/03(金)00:49:53 ID:84c()
>>112
どういうふうに?
114名無しさん@おーぷん :2017/11/03(金)01:46:12 ID:84c()
>>112
結果として利するのが見えてるから前田利家は撤退したとしか言ってないから、あなたが言った戦後に利してることはなんの矛盾もなかった
利しない撤退ではないことの確認をするつもりだったはずなのに>>113で頭に血が上ってて反論のように返してしまい申し訳ない
これで全く問題ないはず
115名無しさん@おーぷん :2017/11/03(金)18:42:55 ID:Q36
>>114
良いんやで。それだけスレ主が熱心なのに感動したわ。
116名無しさん@おーぷん :2017/11/04(土)13:51:45 ID:2QW()
3スレ目とかそもそも熱心以外の何者でもないと思うんですがそれは

さておき敵前逃亡には当然ながらある程度の勝算(今回は秀吉による本領安堵、ないしそれ以上)が必要なのは分かっていただけたようなので話を進める

そこで、前田利家はどのタイミングで撤退を決めたのか
これは以前話した通り、秀吉の美濃大返し後になる(前田利家が秀吉の賤ヶ岳帰還を予知してたのかはわからないが)

それ以前に撤退するならばそれこそ何の利もないと言っていいよな?
実際も起きていないし、そもそも前田利家はスタートが織田直臣で賤ヶ岳に柴田方としてわざわざ布陣する理由もないわけで、居留守でも使って能登に留まって秀吉と通じ空の加賀・越前を襲えばいい
賤ヶ岳に布陣して、美濃大返しが起きて、やっと前田利家は撤退としての勝算が立ったと見て良いよな?
117名無しさん@おーぷん :2017/11/04(土)21:00:19 ID:88M
>>116
だとしたら逃亡前提で布陣したとでも!?
118名無しさん@おーぷん :2017/11/05(日)03:10:11 ID:kQJ()
>>117
それは問題点があまりにも多い

一、そもそも前田利家にそれができる権限無い
逃亡前提の布陣を柴田勝家がみすみす許したことになる

二、逃亡前提で布陣してるのであればわざわざ1ヶ月も撤退を待つ理由がない
戦犯になれば秀吉には良い顔できるわけだから、布陣時に即撤退なり出兵をしないなどやりようがある

三、佐久間盛政を攻撃していない
撤退前提なら柴田に背くわけで、佐久間盛政を攻撃した方が手柄を取れるはずなのに撤退という中途半端な策を取る理由がない

四、秀吉と通じてる様子があまりにも無さすぎる
逃亡前提なら秀吉から所領安堵の話などが伝わってこないとおかしいがそんなものがない(せいぜい外交の使者として秀吉に誘われた程度の逸話しかない)

五、逃亡前提布陣になるならそもそも柴田軍と見るのは間違いになる
前田軍は完全に第三勢力になってしまうので逃亡になんの問題もなくなってしまう
つまりは前田をあてにしてしまう柴田軍が戦犯、ないしそもそも勝ち筋のない戦と結論付けられる

以上から布陣時 は 柴田につくことに利があると思って布陣していたのが妥当かと、そして柴田方として布陣してる以上は撤退前提の布陣をしくことはないだろう

反論あればどうぞ
119名無しさん@おーぷん :2017/11/05(日)03:15:40 ID:kQJ()
気の向くままにずらっと書いてしまった

・そもそも前田利家が賤ヶ岳まで出てくる必要性
・前田利家の撤退姿勢を柴田勝家が見逃してる
・秀吉の対応への勝算のなさ(撤退したところで秀吉方にすぐ寝返りできるとは限らない)

この辺りが問題点か
120名無しさん@おーぷん :2017/11/10(金)18:30:35 ID:ekn()
何日か待ったが反論なしか…
ということはやはり布陣時には撤退の意思はなかったということで良いらしいな

さておき史実は残念ながら撤退してる
敵前逃亡と言うにはあまりにもお粗末
佐久間の突出からの秀吉の到着(佐久間軍と柴田軍の分断)、ここで柴田軍の負けと見た前田利家の撤退といったところで全て理由付けられてる
敵前逃亡以前の問題で撤退が妥当だし特に前田利家が貶められる理由はない
121名無しさん@おーぷん :2018/03/02(金)18:58:11 ID:7ns
>>120
あっ!?
122名無しさん@おーぷん :2018/03/09(金)16:31:48 ID:z5e
反論どうぞ
まだ>>120は生きてるな

てか菅沼スレより続くとはさすがに驚きや
123名無しさん@おーぷん :2018/03/30(金)16:49:07 ID:WLu
>>122
https://matome.naver.jp/m/odai/2150737501689472901
124名無しさん@おーぷん :2018/03/30(金)16:56:49 ID:rYs
>>123
おっ復活やな
相変わらず論破済みの情報持ってきてお疲れや
まさか前スレの失態忘れたとは言わせんよ
125名無しさん@おーぷん :2018/03/30(金)16:58:11 ID:WLu
>>124
論破できるはずないやんwwwww史実なんだから
126名無しさん@おーぷん :2018/03/30(金)17:02:11 ID:rYs
>>125
史実じゃないから前スレで論破されたんだよなあ…逆や逆
127名無しさん@おーぷん :2018/03/30(金)17:03:31 ID:rYs
いやちょっと待て誰や謎の3人目
誤ってふたつタブ開いとるやつおるんか?
128名無しさん@おーぷん :2018/03/30(金)17:03:52 ID:WLu
>>126
時間かけたのに反論それだけか
129名無しさん@おーぷん :2018/03/30(金)17:08:32 ID:rYs
いやもうこのスレ自体が前スレぶんの蛇足やし…
反論しても意味ないやん
130名無しさん@おーぷん :2018/03/31(土)18:21:34 ID:BOR
https://serai.jp/hobby/300547
これ見なよ
131名無しさん@おーぷん :2018/03/31(土)18:28:34 ID:5vG
おう仮説やな
仮説にはなんとも言えん
132名無しさん@おーぷん :2018/04/23(月)18:34:25 ID:rRy
だがさんどこ行ったん?
133名無しさん@おーぷん :2018/04/24(火)02:00:12 ID:Onh
知らん
てかワイはほぼ佐久間専門やしなあ
134名無しさん@おーぷん :2018/06/10(日)18:12:45 ID:Ccg
>>125
まず>>1にまともな反論してからほざけ阿呆
135名無しさん@おーぷん :2018/07/08(日)14:13:29 ID:bIm
久々に新ネタ来たんで貼っときますか
https://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/5303?p=2
いまだに前田の威光があるとの妄想・太閤記のとりあえずの否定など残念としか言えない記事
柴田退治記や余呉庄合戦覚書あたりはまったく無視されてるあたり研究が足らないように見える
歴史学者が言ってるからってのは某騒ぎであてにならないって証明されてるしなあ…

むしろこの苦しい反論を持ってこないといけない時点で佐久間盛政を擁護するのは難しかったんだなという印象しかない
136名無しさん@おーぷん :2018/07/14(土)03:08:21 ID:77W
そもそも昔から無能、猪武者とされてきた者が、
何で武田信玄だの上杉謙信レベルの武将に与えられる「稀代の軍略家」の評価が与えられねばならないのか?
137名無しさん@おーぷん :2018/07/18(水)12:21:25 ID:BSp
人が思う評価はそれぞれだから…
あまりにぶっとびな理論を他人の目に触れる掲示板なりネット記事なりに持ってくるのはどうかとは思われるが
あの辺はもうちょい相応に叩かれてほしいわね
138名無しさん@おーぷん :2018/08/01(水)15:42:33 ID:09d
>>135
>>136
>>137
でもお前ら歴史家のこと論破できないだろ?負け犬どもめw
139名無しさん@おーぷん :2018/08/01(水)20:46:02 ID:Yr5
>>135にもう既に反論書いて論破しにいってるから
ついでに論破自体なら前スレでもう済んでる
140名無しさん@おーぷん :2018/08/01(水)20:52:14 ID:09d
>>139
釣れた釣れたらw
141名無しさん@おーぷん :2018/08/01(水)22:31:40 ID:Yr5
うーん釣られたわね
ここまで来る釣りは考えへんかったわ
142名無しさん@おーぷん :2018/08/08(水)02:28:50 ID:fLG
しゃーないもう一本釣られにいっときますか
鳥越城の戦いしか失敗してないってあったけどあの享年で失敗一回でもしてたらまあ無能扱いされてもしょうがないよね…
143名無しさん@おーぷん :2018/08/08(水)06:08:12 ID:HPG
結論から言うと佐久間盛政は非常に有能な武将です。
前田利家はなんと言うか強い方になびき世の中を上手く渡り歩いた(それ自体の能力は高いわけですけど)というだけです。
柴田勝家の案の持久戦というのははっきり言ってジリ貧であり、冬が開けたら北からは上杉、南からは秀吉に攻められ壊滅するのは目に見えていました。
ゆえに佐久間盛政は、秀吉の撤退は罠と分かっていましたが、逆にチャンスとも見たわけです。
すばやく賎ヶ岳の砦を落とし、秀吉が戻ってくる前に敵を一掃し戦線を整え向かい撃ち、一発逆転をねらうというのが佐久間盛政の策だったと思われます。
撤退したら柴田家にはもう後がない事が盛政には見えていたと思われます。
それを考慮するとこれは悪くない作戦であり、かなり無茶な作戦でしたが盛政は電光石火の進軍でそれをある程度まで実現させています。
よって、柴田勝家の撤退案の方が首尾一貫しない命令だったともいえます(どうせ撤退するなら何で攻めさせたの?という疑問が残ります)。
そして、その指揮系統の混乱を見た前田利家はこりゃだめだとばかりにさっさと秀吉側についてしまうわけですね。
秀吉は盛政を捕らえたあと、九州に一国を与えるという破格の扱いで家臣になることを強く勧めていることから、秀吉もその能力を高く評価したと言えます。
144名無しさん@おーぷん :2018/08/10(金)02:08:57 ID:UnT
>>143
せめて引用元のリンクくらい貼れよ…
まずは前スレ213でも秀吉もジリ貧だと言われてるからまずそっちの反論が優先。前スレでも無能方に論破されたからこの言い分は文句なしに通る。
というより上杉(秀吉にもだが)に備えてる柴田勝家より多方面に敵を抱える秀吉の方が不確定要素が多くジリ貧である。

さらに、さも柴田勝家の指示が首尾一貫してないと言うが、この点は柴田勝家の「砦を落としたら撤退すること」という指示で一貫しており、指揮系統の混乱を起こしたのは勝手に命令を無視した佐久間盛政側。
つまり前田利家の裏切りも指揮系統の混乱が原因である以上は佐久間盛政に原因ということになる。

さらに言えば「柴田勝家がこんな指示を出した目的が不明」とあるが、これも敵戦力を削ることである。ここを見誤ってるのはいただけない。中川清秀の討死のみで十分作戦の成果はあがっている。

本来なら賤ヶ岳の戦いは「柴田勝家の局地的勝利」になるはずの戦を佐久間盛政の命令無視で「佐久間盛政の壊滅と前田利家の裏切りによる大敗北」になったわけだ。
でこれのどこが有能?代替わりしたっぽい佐久間さん?
145名無しさん@おーぷん :2018/08/17(金)13:03:49 ID:M5B
手取川から賤ヶ岳まで約5年経ってるのになんも変わってないから負けるんだよ秀吉に
この発言面白いしからかっとかないと…

手取川…撤退した秀吉と撤退しなかった柴田勝家
賤ヶ岳…撤退し(損ね)た柴田勝家と撤退しなかった佐久間盛政
佐久間こそいったい手取川の何を見てたんですかね…?
146名無しさん@おーぷん :2018/08/19(日)02:42:11 ID:jwO
>>145
佐久間盛政は手取川の戦いに参戦してないそ...(小声)
147名無しさん@おーぷん :2018/08/19(日)03:44:30 ID:ar0
>>146
ああそれなら突っ込むだろうな…
柴田勝家が手取川の大敗から学べって言うなら佐久間盛政側も人づてに聞いて学ばなきゃ駄目だしそこは特に問題はないか
148名無しさん@おーぷん :2018/08/20(月)02:54:56 ID:RtB
王平スレはある程度擁護出来るからガイジ感少なくていいなあ…
佐久間盛政じゃ無理
149池沼遼太 :2018/08/28(火)23:58:35 ID:kCL
偉大な菅沼遼太の自演低脳文章が読めるのは
おーぷん2ちゃんねるだけ!!

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佐久間盛政は稀代の軍略家ではなく稀代の猪武者
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