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佐久間盛政は稀代の軍略家ではなく稀代の猪武者

1名無しさん@おーぷん:2017/09/21(木)21:00:30 ID:g5V()
佐久間盛政の問題点は以下のように多岐に渡る。

1、柴田軍が先に戦場に到着し、有利な地の利を手に入れたのに、率先してそれを崩してしまった

2、奇襲作戦に失敗して撤退する時の準備を何も考えていなかった

3、中川清秀を討ち取っただけで有頂天になってしまい、二匹目の泥鰌を狙おうと欲を出した

4、柴田勝家の再三再四に渡る撤退命令を無視した

5、秀吉軍が賤ヶ岳に舞い戻ってからも撤退の決断が遅く、追撃を受ける事態になっている

6、撤退する可能性をまるで考えていなかったので、泥濘や闇夜、そして主が指摘するような「坂」を移動する準備がまるでなってなかった

7、何とか撤退に成功したと思いきや、弟の柴田勝政が壊滅の危機と聞いて、慌てて救援に駆けつけた
(元々柴田勝政がここまで追いつめられたのは、撤退命令を無視した佐久間盛政のせいなのだが)

8、当然の事ながら、昨夜から一睡もしていないし、補給も受けていない

9、大軍の秀吉軍&丹羽隊に、寡兵で正面決戦を挑んだ
(丹羽隊だけが相手なら、勝政の軍勢を合わせれば互角か、少し優勢とは言えたが、さすがに秀吉本隊相手は無理)


もうこの時点で、「前田利家」が一切関係ない所まで滅茶苦茶な状況にしてしまっている。
こんな状態で、
「前田利家が撤退しなければ勝てた」
など、狂人の寝言であろう。

以上から佐久間盛政は愚将で猪武者である

前スレhttp://ikura.open2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1494130023/l30
71名無しさん@おーぷん :2017/10/11(水)09:36:08 ID:uXo
尾山って名前の通り金沢の端っことかに在ったんでなかったっけ?
一応場所はほんのちょっとずれてると思ったが…

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/金沢城
>なお、金沢の地名は室町時代の文明年間には既に存在していたことが知られている[2]が、
>尾山御坊時代は金沢の小立野台地の先端すなわち山尾(尾山)にあったことから尾山の呼称が使われていた。
>佐久間盛政が新城を築いた時に一向一揆の印象が強い尾山ではなく金沢を城名に用いたが、
>前田利家が入城すると羽柴秀吉(豊臣政権)に敵対して滅ぼされた盛政命名の金沢城ではなく自身の出身地の尾張国にも通じる尾山を採用した。
>だが、金沢の地名が広く知られていたために尾山城の名前は普及せず(豊臣政権の公文書でもほとんど用いられていない)、
>利家自身も再び金沢の城名を用い始めたと推測されている
72名無しさん@おーぷん :2017/10/11(水)11:20:30 ID:JIn()
うーん…少しずれてるとはいえそもそも一帯が金沢と呼ばれてたから金沢城にした以上のことはないかと、利家も同地域を「尾山」と呼ぶこともあったようだし
利家も前の為政者のイメージ払拭に名前を変えたわけだし同様のことを佐久間盛政もしたのではないだろうか
73名無しさん@おーぷん :2017/10/11(水)15:30:10 ID:uXo
まあ、縄張りやって城を作っても現存してないし、
そもそも実戦に用いられた試しが無いから堅城、名城なのかも不明だし、
金沢という地名はどこかの文献に因ったのではなく元々の地名だったようだし、

「佐久間盛政の功績」とやらは、やっぱり0だねぇ
74名無しさん@おーぷん :2017/10/14(土)09:14:43 ID:EGR()
話題尽きたっぽいし前スレ>>1としての菅沼への見解と佐久間盛政が嫌われる理由を言っとくか

佐久間盛政が嫌われる理由だが、こっちは菅沼とは違い本家でいまだに「佐久間はサイキョー」とか言って褒めて猪武者程度の佐久間を上げて戦国時代スレを潰し続けてるから(今回も案の定、全く納得いかない駄説しか言ってくれない)
しかも自上げを続けて別日にさらに上げで自演していくスタイル、最後のレスを付けないと気が済まない性格、時にはアク禁を多用していくスタイルなど行動にも嫌われる要素満載なのは気づいてほしい
これらを本家でやられてたから実害的に菅沼より嫌いやな、菅沼とか本家じゃワンランク上のガイジ扱いで本家とかいう俗世に降りてくるわけじゃないから…
なので菅沼は今のところどうでもいいです(これでもし本家に菅沼持ち込まれたら単に戦国スレ潰したいだけという菅沼の希望に反することが起きてるわけだから菅沼じゃなくただの菅沼を騙った煽りと証明できるので都合よし)
そもそも武田信玄レベルなら戦国No.1と思う人間なら許せるしそれに反論して信長らを戦国No.1と言うのも全く問題はないから議論しても構わないとは思う

だからこそ早急に佐久間盛政の方を片付けた方がよっぽど菅沼対策になるかなと(これなのに菅沼憎しのみで佐久間盛政方についたのおったけど個人的には佐久間の方がよっぽど嫌い)
75名無しさん@おーぷん :2017/10/14(土)17:41:28 ID:pzb
同意。
相手の指摘に耳を傾けようとしない時点で終わってる。
もしくは自分に都合よく解釈したり。

「前田利家は敵前逃亡どころか柴田勝政に援軍の打診すら行っていた。しかし勝政は拒絶するどころか前田隊に攻撃を行った」

資料に書いてあり、己が引用した事ですらまともに読めないのだから話にならん。
76名無しさん@おーぷん :2017/10/14(土)21:02:44 ID:6K7
>>74
>>75
https://matome.naver.jp/m/odai/2150737501689472901
77名無しさん@おーぷん :2017/10/15(日)07:28:38 ID:Km8()
>>76
賤ヶ岳の戦いの柴田軍の敗因 
『柴田合戦記』 
・賤ヶ岳の戦いのすぐ後に成立。著者は大村由己(秀吉の祐筆) 
・柴田勝豊が秀吉に降ったのは、勝豊が傲慢な佐久間盛政を嫌っていたため。 
・羽柴軍の砦を襲撃した盛政の活躍と雄姿を絶賛している。 
・奇襲作戦については、それを柴田軍の敗因とは記していない。柴田軍が出てきたことを秀吉が喜んだ描写はあるが、あくまで堂々と決戦しようという 
意気込みである。 
・秀吉の帰還を知った柴田軍は動揺したが、総大将の柴田勝家は立派な人物だったので将兵は必死に戦い、柴田軍・羽柴軍ともに多数の戦死者が出た。 
『太閤記』 
・成立は江戸時代初期。著者は小瀬甫庵(前田家の家臣) 
・秀吉と関係ない、前田家が活躍した北陸の合戦も詳細に記述。そのおかげで荒山合戦での盛政の活躍もしっかり描写されている。 
・柴田勝豊が秀吉に降った理由は、『柴田合戦記』のそれに加えて、柴田勝家が問題のある人物だったから。ただし降伏した柴田勝豊を厳しく批判もしている。 
・奇襲作戦の経緯として、織田信孝を救援する手立てが必要となり、山路正国が奇襲作戦を盛政に提案。盛政は賛成して柴田勝家に進言し、その際に柴田勝家から戦果を挙げたらすぐに引き揚げるよう命じられた。 
盛政は大岩山、岩崎山を奪取した後、勝家に催促されても引き上げなかった。そうしている内に秀吉が近江へ帰還した。 
・ただし撤退戦では奇襲部隊も柴田勝政の軍勢も奮戦したことが詳しく描写されている。 
・茂山に前田利家が布陣していることを頼みにして、盛政は羽柴軍に決戦を挑もうとしたが、続々と集結する羽柴の大軍を見て北国勢の後方にいた部隊が逃げ出した。そこへ羽柴軍が総攻撃を行って勝利した。 
・羽柴軍に囚われた盛政の発言「勝家様の指示通りに引き上げていれば、こんなことにはならなかった。戦果を敗北で失わず、上方勢を侮らなければ~~」 
・盛政は処刑される際、顔色一つ変えず首を刎ねられた。 

『太閤記』では盛政の慢心が敗北を招いたが、撤退戦での活躍や敵前逃亡した部隊のことも記されている。 
敵前逃亡があったことについて、『太閤記』と同時期に成立したとみられる史料の記述を並べてみる。 

『渡辺勘兵衛記』 
・撤退戦で奇襲部隊は善戦。 
・柴田勝政の軍勢は羽柴軍の銃撃を受けて負傷者多数、そこへ羽柴軍が攻めかかったので総崩れに。しかし尾根道の高みに2千ばかりの敵軍が布陣していたので、 
勝政勢は(友軍を頼みにして)そこで踏みとどまった。 
・両軍は二時ほど睨み合っていたが、急に柴田方が動揺して崩れたので、羽柴軍が追撃して勝利した。 
・奇襲作戦が柴田軍の敗因とは記されていない。
・『太閤記』には渡辺勘兵衛の活躍も記されており、『渡辺勘兵衛記』の方が先に成立していて小瀬甫庵が参考にしたか、渡辺勘兵衛に取材した可能性が考えられる。

『一柳家記』 
・秀吉は夜通しで近江へ帰還。羽柴軍は翌日の午前3時頃に大岩山へ攻めかかる。 
・盛政はすでに撤退を始めていたが、大軍だったので午前4時頃まで掛かった。奇襲部隊の撤退は速かった。 
・北国軍(奇襲部隊か勝政勢)が雨のように矢を放ち羽柴軍を足止め。盛政は諸将の軍勢を集め、殿軍を務める軍勢を待ち、引き返して羽柴軍と戦うことを繰り返しながら撤退。羽柴軍にとって厳しい戦いだった。 
・やがて盛政勢(勝政勢?)は敗北し、敵味方入り乱れて凄まじい追撃戦が行われた。 
・盛政は敗北した軍勢を収容し、1万5千の軍勢を集結させて辺りで一番高い山に陣取り、決戦の構えを見せた。 
・羽柴軍の先鋒部隊は負傷者が出て疲労もしていたので休息。その間に秀吉が旗本部隊を率いて到着。後続も到着して羽柴軍は大軍になった。 
・決戦が始まり、まず羽柴軍から攻撃を仕掛けたが、北国軍の弓と鉄砲の射撃により羽柴軍に多数の死傷者が出た。 
・藤堂高虎の手勢が北国軍と銃撃戦を行い、さらに(北国軍と羽柴軍が)接近戦をしばらく行っていると、盛政の陣地に何らかの異変があって北国軍は敗北した。 
・その異変とは、馬が暴れて諸将の軍勢が驚いた、喧嘩が起きた、あるいは謀反人がいた、のいずれかである。 
・羽柴軍は勝ちに乗じて追撃を行った。北国軍は敗走したが、引き返して戦い討死した者も大勢いた。 
『江州余吾庄合戦覚書』 
・撤退戦における奇襲部隊と勝政勢の善戦振りは、他の史料とほぼ同じ。 
・盛政は事前に撤退することも想定していて、退路に部隊を置いていた。そのため撤退は上手く進んだ。 
・だが(撤退を支援するために配置された)後方にいた部隊が逃走したため、敗北した。 
78名無しさん@おーぷん :2017/10/15(日)07:28:54 ID:Km8()
続き
『佐久間軍記』 
・秀吉は柴田軍の陣地を見て、防戦に努めることを決めた。 
・柴田勝家は佐久間盛政、中川の砦を攻め落としたらすぐに戻れと命じた。 
・大岩山を占拠した後、盛政は羽柴秀長の陣を攻めるために現地に留まった。 
・柴田勝政の軍勢が羽柴軍と戦ったとき、何人かが北陸方面へ逃走した。柴田勝家はその様子を見て、盛政に味方の逃走を阻止するよう指示を伝えた。 
・前田利家は軍勢を率いて移動し、柴田勝政に対して「貴公の軍勢は苦戦したので、我が軍勢が替わろう」と言ったが、柴田勝政は断った。前田利家と柴田勝政の兵が喧嘩を起こした。 
・佐久間七右衛門という人物が兵の逃亡を阻止しようとしたところ、騒動になった。 
79名無しさん@おーぷん :2017/10/15(日)07:29:36 ID:Km8()
>>76-78の続き
各史料で合戦の様子には差異があるものの、前田利家の撤退は羽柴軍の総攻撃を受ける前の自壊から始まり、それは盛政兄弟の突出により生じた動揺と混乱がもたらしたものであることが分かる。 
しかし戦後の事実として、 
・秀吉は前田家に加賀北部の2郡を加増した。 
ことを考えると、逃走した前田利家の軍勢だと推測し賤ヶ岳の戦いでの勝利を前田利家のおかげと小瀬は記した。 

そしてこの戦線離脱が原因で、奇襲部隊そして柴田軍は敗北したことになった。戦場から離脱した金森長近は後の武功もあり飛騨一国を安堵される。
また逃亡したのが一切の責任であれば、前田家家臣の小瀬甫庵は『太閤記』で撤退した部隊がいたことなど書くことはしなかっただろうし、秀吉の勝因となったこの逃走した部隊を率いた武将の名前をはっきり記しただろう。 
こうしてみると「前田利家がなんの前触れもなく撤退した」や「利家の撤退が敗北を招いた」という一般論も疑わしくなってくる。 
ただし『太閤記』を読んだ当時の前田家の人々や著者の小瀬甫庵には葛藤があったかもしれない。 
『太閤記』の記述だけでは、前田勢が加賀の国主になるには不十分な功績だからである。
――加賀百万石の繁栄の基礎を築いた偉大な藩祖と二代目の理由を記すことができない。賤ヶ岳の秀吉勝利の功績を前田利家にしてみるが、盛政の罪を記す。読者には察してほしい。 
なお当時の前田家当主は三代目の前田利常で、当事者だった父と兄は故人で意見を求めることはできなかった。 
また賤ヶ岳の戦いは織田家中の内紛であり、合戦当時も盛政の行動はなぜか世間から咎められず、江戸時代になってから価値観の変化で突撃は美談とされるようになり各史料は盛政の突出を良かったかのように記述した、という可能性も考えられる。 
賤ヶ岳の戦いにおいて、奇襲作戦が成功して秀吉が戻ってくるまでの間、つまり柴田軍が優勢だった時も、山路の他に柴田軍へ戻った武将は結局一人もいなかった。
ゆえに敗因は佐久間盛政兄弟の突出だったと裏付けられる

これで良い
80名無しさん@おーぷん :2017/10/15(日)07:39:12 ID:Km8()
結論が全く逆でも通じる文章になる内容の推測ではなんの証明にもならない
この程度の文章の改変で結論を逆にできる説など全く説得力はない
そもそも今まで発見されたどの書物も前田利家の行動は咎めてないわけだし

結局のところ賤ヶ岳の戦い起きた事実は佐久間盛政の奇襲→清秀討死と秀吉の帰還→柴田全軍撤退(→即柴田滅亡)なのでここから推測するしかない
81名無しさん@おーぷん :2017/10/15(日)16:28:28 ID:eBT
>>76
自分で引用した物の中に、
「前田利家は敵前逃亡どころか、柴田勝政に援軍の申し出をしていた」
と書いてある資料があるじゃん。
『佐久間軍記』の記述は読めないの?
82名無しさん@おーぷん :2017/10/15(日)22:26:15 ID:HcT
>>81
https://matome.naver.jp/m/odai/2150737501689472901
考証という言葉も知らないキチガイは黙れ
83名無しさん@おーぷん :2017/10/16(月)01:12:16 ID:1rS()
>>82
煽りワードと方法が上手すぎて佐久間の者じゃないな

さておき考証とは史料の記述を元に調査することであり決して推測のみで考えてはいけない、そのリンク先の文章は「結論」以降は残念ながら単なる筆者の推測でしかない(結論の差し替え程度ならもうやった)
『佐久間軍記』の記述である以上は前田利家による柴田勝政への援軍は当然考証にあたる内容

それとも佐久間盛政の同族が書いた史料でそちらのまとめサイトにも掲載されてる『佐久間軍記』もあてにならん史料だとでも言うのだろうか?

どちらにしても考証という言葉を知らなかったのはあなたの方だろう

佐久間キチガイのふりして何も考えずに佐久間の文章使って煽ろうとしただけやろなあ…
84名無しさん@おーぷん :2017/10/16(月)06:15:16 ID:JxB
>>82
https://dictionary.goo.ne.jp/jn/73343/meaning/m0u/
考証の正しい意味を国語辞書で調べてきなさい。
自分で引用した佐久間軍記の記述すら無視して、最初から用意している「結論」に持っていく事は「考証」ではない。

例えば、何らの資料も証拠も無く、
「お前は殺人犯でレイプ魔で下着泥棒の前科持ち」
と決めつけ、その前提から都合が良い資料や証拠をかき集めてくる事を「考証」と言うのか?w
85名無しさん@おーぷん :2017/10/16(月)06:17:18 ID:JxB
・前田利家は軍勢を率いて移動し、柴田勝政に対して「貴公の軍勢は苦戦したので、我が軍勢が替わろう」と言ったが、柴田勝政は断った。前田利家と柴田勝政の兵が喧嘩を起こした。
・前田利家は軍勢を率いて移動し、柴田勝政に対して「貴公の軍勢は苦戦したので、我が軍勢が替わろう」と言ったが、柴田勝政は断った。前田利家と柴田勝政の兵が喧嘩を起こした。
・前田利家は軍勢を率いて移動し、柴田勝政に対して「貴公の軍勢は苦戦したので、我が軍勢が替わろう」と言ったが、柴田勝政は断った。前田利家と柴田勝政の兵が喧嘩を起こした。
・前田利家は軍勢を率いて移動し、柴田勝政に対して「貴公の軍勢は苦戦したので、我が軍勢が替わろう」と言ったが、柴田勝政は断った。前田利家と柴田勝政の兵が喧嘩を起こした。
・前田利家は軍勢を率いて移動し、柴田勝政に対して「貴公の軍勢は苦戦したので、我が軍勢が替わろう」と言ったが、柴田勝政は断った。前田利家と柴田勝政の兵が喧嘩を起こした。

日本語が読めますか、佐久間キチガイくん?
86名無しさん@おーぷん :2017/10/17(火)22:45:33 ID:I4U
>>84
>>85
もう一回読め。https://matome.naver.jp/m/odai/2150737501689472901
87名無しさん@おーぷん :2017/10/18(水)01:13:42 ID:mz6()
>>86
とりあえず、>>85の反論にそのリンクを貼るってことからあなたがそのリンク先の文章を全く読んでいないことはわかった。
88名無しさん@おーぷん :2017/10/18(水)09:29:14 ID:hmQ
>>86
日本語が読めないの?

・前田利家は軍勢を率いて移動し、柴田勝政に対して「貴公の軍勢は苦戦したので、我が軍勢が替わろう」と言ったが、柴田勝政は断った。前田利家と柴田勝政の兵が喧嘩を起こした
89名無しさん@おーぷん :2017/10/18(水)09:30:41 ID:hmQ
【考証】
[名](スル)古い文献や物品などを調べ、それを証拠として昔の物事を説明したり解釈したりすること

古い文献に書いてある事を根拠にしない「考証」って何ですか?
考証じゃなくて「妄想」ですよね?
90名無しさん@おーぷん :2017/10/18(水)10:04:57 ID:mz6()
>>88
>>89
そもそも「佐久間と言えばあの文章だな」って横流しでリンク貼ってるだけだから読んですらいないんでしょ
あんな駄文を全部頭の中に叩き込んでるやつはそういないだろうし
91名無しさん@おーぷん :2017/10/18(水)18:51:12 ID:hmQ
>>90
勘弁してほしいですね…
最低限、資料くらいはまともに読んでほしいものです。
しかも『佐久間軍記』って、散々こいつが「読め」「読め」と言い募ってきた文献じゃないんですかね?
92名無しさん@おーぷん :2017/10/18(水)23:40:25 ID:mz6()
>>91
個人的には菅沼狩りのためのファッションガイジに代替わりしたとしか見てないから何とも
なぜかおんjに「菅沼」のクソスレ立ってたし
93名無しさん@おーぷん :2017/10/19(木)21:00:45 ID:DWG
元々の人数その物が柴田が劣勢なのに、地の利も人の和も放り捨てたなら勝てるわけありませんわ。
佐久間盛政が地の利を放り捨て、柴田勝政が人の和を放り捨てたのだから、前田利家の存在なんか関係なしに負けてたね。
94名無しさん@おーぷん :2017/10/20(金)14:57:52 ID:6A3()
天の利すら清洲会議(佐久間の奇襲もそうだが)の時点で失ってるから何一つ揃ってないね…
前田利家とかいう問題じゃない
95名無しさん@おーぷん :2017/10/20(金)17:54:22 ID:Yl0
唯一理解出来ないのは、佐久間軍記の記述、
「前田利家は援軍を申し出たのだが、柴田勝政が拒否した上に攻撃した」
という部分。

丹羽長秀や秀吉本隊に囲まれてる状況では、頭を下げてでも柴田勝政は前田利家に援軍を頼むべきだったんじゃないの?
何で援軍を拒否ったのか?
元々仲が悪かったのかな?
手柄を独り占めにしたかった?
96名無しさん@おーぷん :2017/10/20(金)18:30:27 ID:6A3()
手柄の独り占めであればわざわざ前田利家に手出しする理由はないし撤退させればいい、しかも佐久間盛政の救援は受けるのが矛盾になるからその線はかなり低いかと

かといって仲が悪かったのみであの状況の援軍を断るのは戦況を理解しなさすぎだと思う 

このタイミングで既に前田利家らが秀吉に通じている、あるいは通じているとの偽報なりがあれば背後奇襲の線が残るから、このあたりが理由としては一番まともか?
97名無しさん@おーぷん :2017/10/20(金)20:17:15 ID:Yl0
少なくとも、前田利家がなんか怪しいという何らかの噂は流れてたのかな?

でも、前田だって無傷で戦場を脱出出来た訳じゃなく、戦死者も出してるんだよね。

賤ヶ岳の時点での前田利家の位置付けや評価が解らんのだな。

もしも太閤記か何かの記述通り、「秀吉と仲良しだった」という事が知れ渡っていたのなら、
柴田勝家だって前田を選ばず佐々成政を連れていったろう。
柴田勝家が選んでも、その他の織田家関係武将が反対するはず。

それとも「信頼出来ないから」、柴田勝家の監視下に置いておきたかったのか?
ならば、後方ではなく最前線に置いて槍働きさせるはずだし…
98名無しさん@おーぷん :2017/10/21(土)02:46:47 ID:5Kz()
(その説を取るなら)本来は柴田勝政(or佐久間盛政)が監視役だったか、佐久間盛政と一緒に前田利家も撤退させたかったのかの二択かと
それが佐久間盛政の戦線維持で機能しなくなったってことでは(柴田勝家はこの時点では佐久間盛政は帰ってくると考えてるはず)

途中の前田利家のみを北陸に置いていくことは考えづらいな
秀吉とのほぼ全勢力を挙げた戦いの最中に前田利家が領地を奪うことがあったらそれこそ最悪だろうし、かといって佐々以上の兵を残すとそれこそ秀吉戦線の兵が減るわけで、前田利家は連れていかざるを得ない(もちろん地理的要因もあるとは思うが)
たぶん北陸に残った主な将は佐々くらいしかいないはず

そもそも茂山砦も前線に含むんじゃないのか?
佐久間盛政の突出で最前線が霞んでるけど、前田利家が布陣した茂山砦自体も羽柴の陣がある東野山・堂木山両砦より南にあってかなり危険な位置に見えるが…

ただ、前田利家が賤ヶ岳の戦いでどういう位置付けかはやっぱりわからんとしか言えない
撤退した事実と「佐久間軍記」のその部分を見たらいわゆる「太閤記」の「前田利家が通じてた」と思われてたと考えるのが妥当と思っただけやな
99名無しさん@おーぷん :2017/10/21(土)02:48:54 ID:5Kz()
ただ前田利家の撤退とは別の事象として佐久間盛政の突出は起きてるから前田利家の立場はわざと無視してた部分が大きい(前田利家がどんな立場であろうと佐久間盛政の評価には関係ないので)
100名無しさん@おーぷん :2017/10/21(土)10:12:10 ID:sRZ
>>98
噂はどうであっても、前田利家と秀吉との間に「密約」みたいな物は全く無かったと言っても良いよね。
現に戦死者が出ているのだし、前田利家は北ノ庄城攻めの先鋒を志願せねばならなかった。
佐久間キチガイが好んで持ち出す、前田利家が十万石を貰ったというのは、秀吉との密約でも何でもなく北ノ庄城攻めの先鋒の功績であろう。
金森長近や不破勝光が北ノ庄城攻めに参加したという資料は見つからない。
単に「秀吉に降伏した」「前田利家に従った」と出てくるだけだ。
実際、不破家は前田家家臣として幕末まで続いたようである。
前田利家と不破勝光の両者に与えられたのが、加賀十万石というのでは、公平に分けたとしても前田利家の取り分は五万石であろう。

佐久間盛政の評価と前田利家の動向には全く関係が無いと指摘するのは同意。
前田利家じゃなく、佐々成政が賤ヶ岳の前田ポジションであろうとも、
突出する馬鹿の猪武者の面倒など見切れないであろう。
101名無しさん@おーぷん :2017/10/21(土)13:30:26 ID:5Kz()
佐久間盛政について話しても突出が完全なる敗因であり、現時点で猪武者としてしか評価出来ない以上は、佐久間盛政について話しても進展ないし、論点のすり替えを防ぐために前田利家の賤ヶ岳の戦いでの位置付けの考察はしてもいいのかもしれんが

>>100
うーん…密約は見受けられないとは思うのだが…

全くなかったと言い切るにはあまりに手際が良すぎるのが不自然で密約を疑りたくはなるかな…(撤退だけでなく北ノ庄への先鋒を買って出て一週間で柴田勝家を自刃に追い込み加賀半国を貰ってる)
戦死者にしても「佐久間盛政が軍律無視の突出してる時点で味方が混乱してた」とか言われたらもう反論できないし
102名無しさん@おーぷん :2017/10/21(土)17:46:30 ID:sRZ
>>101
前田隊の戦死者って、撤退途中に起こっていたのでは?
「早々に撤退していたから前田は無傷」みたいな甘い話ではなく、
命からがら府中城に逃げ帰った感じだし、その後も秀吉が府中城を攻めてくる危険性も考えて籠城姿勢を見せていたみたいだし。

まあ、簡単に寝返ってしまえば軽く見られてしまうので、
「己を高く売り付けようとした」とも解釈出来るが。

秀吉が、前田利家なんかイラネとか思えば一息に踏み潰されていただろう。

柴田勝家に関しては、既に賤ヶ岳で敗北した時点で手持ちの兵隊のほぼ全てを失っていたんじゃないの?
103名無しさん@おーぷん :2017/10/21(土)22:11:59 ID:5Kz()
>>102
命からがら逃げていたとなると今度は北ノ庄攻めはどうして出来たのかが謎になる
ある程度は兵力残ってないと柴田攻めの先鋒なんて出来ないのでは?
104名無しさん@おーぷん :2017/10/21(土)22:46:19 ID:EZ0
>>103
矛盾だよな?
105名無しさん@おーぷん :2017/10/22(日)02:51:53 ID:BR0()
>>104
その一言じゃ議論進まないからもうちょい突っ込んだ情報ください…
106名無しさん@おーぷん :2017/10/22(日)07:13:54 ID:qsd
>>103
賤ヶ岳の敗残兵の編成し直した分と、府中城の全軍では?
府中城には、籠城戦の準備が行える程度には、まだ兵力が残っていたみたいだし。

最早柴田勝家に手持ちの兵隊が居ない以上は、府中城を空っぽにして出撃しても大丈夫だろうし。
107名無しさん@おーぷん :2017/10/22(日)11:11:14 ID:BR0()
>>106
籠城戦の準備を行える兵力ってだけならそんなに多くはないはず、おそらく百もいれば足りるだろう(というより北ノ庄や府中は籠城分の兵力程度は残してあるだろう)

もともと少数の前田利家だけが敗残兵ボロボロ、かつ府中に兵を残す理由も無いのに北ノ庄攻めの兵が残ってて、もともと多数の柴田勝家は敗残兵と北ノ庄の兵まとめても籠城の兵すらいないって言うのはさすがに筋が通らん…
いくらなんでも敗残兵の数は母数も考えて柴田勝家>前田利家だろうし、北ノ庄に残る兵が府中に残る兵より少ないことも考えづらい
108名無しさん@おーぷん :2017/10/25(水)14:20:34 ID:57x()
論を一歩進めると、北ノ庄攻めの存在から前田利家は裏切ることをある程度想定しつつ動いていたことが証明されるため、柴田勝家に心酔してたということは確実に否定でき、自身の利を重視してた
ここまで確定で問題はないはず

また、同時に柴田軍が勝勢、あるいは五分ならそもそも自身の利を重んじる姿勢の前田利家の茂山からの撤退などあり得ないことも確認したい
109名無しさん@おーぷん :2017/10/25(水)21:43:20 ID:oYL
>>108
じゃ完全なる敵前逃亡ってことね
110名無しさん@おーぷん :2017/10/26(木)00:47:54 ID:9Eb()
>>109
拙速さが佐久間レベルで草
撤退についてあの文章は何も触れてないぞ
111名無しさん@おーぷん :2017/10/27(金)23:37:20 ID:hUW()
なんなら敵前逃亡が前田利家の利にならないって言ってるくらいなんだけどそれすら読めないのか

キチガイ装って話を終わらせようとしてるのかな?
112名無しさん@おーぷん :2017/11/02(木)19:53:56 ID:YbH
>>111
結局、利してる。
113名無しさん@おーぷん :2017/11/03(金)00:49:53 ID:84c()
>>112
どういうふうに?
114名無しさん@おーぷん :2017/11/03(金)01:46:12 ID:84c()
>>112
結果として利するのが見えてるから前田利家は撤退したとしか言ってないから、あなたが言った戦後に利してることはなんの矛盾もなかった
利しない撤退ではないことの確認をするつもりだったはずなのに>>113で頭に血が上ってて反論のように返してしまい申し訳ない
これで全く問題ないはず
115名無しさん@おーぷん :2017/11/03(金)18:42:55 ID:Q36
>>114
良いんやで。それだけスレ主が熱心なのに感動したわ。
116名無しさん@おーぷん :2017/11/04(土)13:51:45 ID:2QW()
3スレ目とかそもそも熱心以外の何者でもないと思うんですがそれは

さておき敵前逃亡には当然ながらある程度の勝算(今回は秀吉による本領安堵、ないしそれ以上)が必要なのは分かっていただけたようなので話を進める

そこで、前田利家はどのタイミングで撤退を決めたのか
これは以前話した通り、秀吉の美濃大返し後になる(前田利家が秀吉の賤ヶ岳帰還を予知してたのかはわからないが)

それ以前に撤退するならばそれこそ何の利もないと言っていいよな?
実際も起きていないし、そもそも前田利家はスタートが織田直臣で賤ヶ岳に柴田方としてわざわざ布陣する理由もないわけで、居留守でも使って能登に留まって秀吉と通じ空の加賀・越前を襲えばいい
賤ヶ岳に布陣して、美濃大返しが起きて、やっと前田利家は撤退としての勝算が立ったと見て良いよな?
117名無しさん@おーぷん :2017/11/04(土)21:00:19 ID:88M
>>116
だとしたら逃亡前提で布陣したとでも!?
118名無しさん@おーぷん :2017/11/05(日)03:10:11 ID:kQJ()
>>117
それは問題点があまりにも多い

一、そもそも前田利家にそれができる権限無い
逃亡前提の布陣を柴田勝家がみすみす許したことになる

二、逃亡前提で布陣してるのであればわざわざ1ヶ月も撤退を待つ理由がない
戦犯になれば秀吉には良い顔できるわけだから、布陣時に即撤退なり出兵をしないなどやりようがある

三、佐久間盛政を攻撃していない
撤退前提なら柴田に背くわけで、佐久間盛政を攻撃した方が手柄を取れるはずなのに撤退という中途半端な策を取る理由がない

四、秀吉と通じてる様子があまりにも無さすぎる
逃亡前提なら秀吉から所領安堵の話などが伝わってこないとおかしいがそんなものがない(せいぜい外交の使者として秀吉に誘われた程度の逸話しかない)

五、逃亡前提布陣になるならそもそも柴田軍と見るのは間違いになる
前田軍は完全に第三勢力になってしまうので逃亡になんの問題もなくなってしまう
つまりは前田をあてにしてしまう柴田軍が戦犯、ないしそもそも勝ち筋のない戦と結論付けられる

以上から布陣時 は 柴田につくことに利があると思って布陣していたのが妥当かと、そして柴田方として布陣してる以上は撤退前提の布陣をしくことはないだろう

反論あればどうぞ
119名無しさん@おーぷん :2017/11/05(日)03:15:40 ID:kQJ()
気の向くままにずらっと書いてしまった

・そもそも前田利家が賤ヶ岳まで出てくる必要性
・前田利家の撤退姿勢を柴田勝家が見逃してる
・秀吉の対応への勝算のなさ(撤退したところで秀吉方にすぐ寝返りできるとは限らない)

この辺りが問題点か
120名無しさん@おーぷん :2017/11/10(金)18:30:35 ID:ekn()
何日か待ったが反論なしか…
ということはやはり布陣時には撤退の意思はなかったということで良いらしいな

さておき史実は残念ながら撤退してる
敵前逃亡と言うにはあまりにもお粗末
佐久間の突出からの秀吉の到着(佐久間軍と柴田軍の分断)、ここで柴田軍の負けと見た前田利家の撤退といったところで全て理由付けられてる
敵前逃亡以前の問題で撤退が妥当だし特に前田利家が貶められる理由はない

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